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古隅田川:荒川放水路    -庶民の味方「せんべろ」- 

庶民:世間一般の人々。特別な地位・財産などのない普通の人々。「―の文化」「―の暮らし」・・・goo辞書より抜粋



東京を流れる古隅田川を紹介する前に、ちょっと寄り道させていただきます。お付き合いのほど、よろしくお願いいたします。

東京都の東側には、隅田川、荒川、中川、江戸川などの大河川が集中しています。これは、利根川東遷・荒川西遷によるものです。利根川東遷については、拙ブログ『利根川東遷・・・クリック』をご参照願えればと存じます。

東京地図

江戸時代より延々と治水や防衛、農産業、運輸といったインフラを整えるために行われた、関東平野の主要河川の整備の結果が今日の川の状況です。そして、この河川の整備によって、古隅田川が埼玉県と東京都に取り残されたかのような状況になってしまっています。

上掲の地図の中では、荒川が最も川幅が広く、他を圧しているといっても過言ではありません。この荒川の下流部は、人工の巨大な水路なのです。1965年(昭和40年)までは『荒川放水路』と呼ばれておりました。以下、現在の荒川のうち『荒川放水路』部分は、『荒川放水路』と記載致します。

PC19041荒川放水路②

『荒川放水路』が誕生する直接のきっかけは、1910年(明治43年)の『東京大水害・・・クリック』によります。千住、本所、亀戸、浅草などの荒川下流域は、もれなく水浸しとなってしまいました。水は2週間近くの間引かず、500名近い死者、行方不明者を出しています。

翌1911年(明治44年)、荒川の氾濫防止策として『荒川放水路』の建設が決定します。いくつかの流路案が検討された中で、内務省は抜本的な洪水対策を意図し、当時の埼玉県岩淵町の官鉄東北本線の橋梁から中川河口に至る約22kmを開削することとしました。

『荒川放水路』の開削は、日本人として唯一パナマ運河の建設にあたった青山士(あおやまあきら)が工事の指揮にあたりました。
青山は清廉潔白な人だったようで、荒川と隅田川の分岐点、岩淵水門のそばにある『荒川放水路』の記念碑には「此ノ工事ノ完成ニアタリ 多大ナル犠牲ト労役トヲ払ヒタル 我等ノ仲間ヲ記憶セン為ニ 神武天皇紀元二千五百八十年 荒川改修工事ニ従ヘル者ニ依テ」と記されており、指揮にあたった青山の名前はどこにも刻まれていません。また、 太平洋戦争中、パナマ運河への攻撃を立案していた海軍から、パナマ運河に関する情報提供を求められたところ、土木技術者の良心に基づいてこれを拒否したと伝えられています。

荒川放水路完成記念碑

工事の着工は1913年(大正2年)で、途中に関東大震災があったことにもよるのかもしれませんが、完工は1930年(昭和5年)と17年間を費やし、当初予定の倍という工期になっています。ちなみに、工費は当初予定の約3倍の3,100万円超という莫大な金額となりました。
買収面積は1,100町歩(東京ディズニーランドの約20個分)に達し、埼玉県2町村、東京府17町村、立退き家屋は1,300戸にのぼっています。

岩淵町から隅田村までの川幅は250間(約455m)、その下流では徐々に幅員を拡大し、河口部は320間(約582m)となりました。その川幅の中央に、水路を設け、幅は60間(約109m)から140間(約255m)で開削することと決められました。
実は、両岸の堤防の高さは同じなのですが、天幅は右岸が8間(約15m)であったのに対し、左岸は6間(約11m)しかなかったそうです。この堤防の規格は住民には秘密にされていました。そのためか、都心部を守るために堤防の高さが異なっている、と噂が飛び交ったそうです。

この開削によって、古隅田川の流路も寸断あるいは『荒川放水路』に呑み込まれてしまいます。次回以降、東京の古隅田川を紹介する予定ですが、事前知識として、利根川東遷だけでなく、『荒川放水路』の開削にも影響を受けていることを知っておいていただくと、よりご理解が進むものと思います。

また、河川だけでなく、流域の南葛飾郡大木村、平井村、小松川村、船堀村の4村は事実上廃村に追い込まれています。4村の廃止はいずれも同じで、1914年(大正3年)4月1日でした。

鉄道も影響を受け、『荒川放水路』によって軌道を変更したりしています。
例えば、東武スカイツリー線の鐘ヶ淵~牛田間は、現在は『荒川放水路』の堤防脇を直線的に走っていますが、かつての軌道は、放水路の中央付近まで張り出して大きな弧を描いていました。

東武線新軌道

東武線旧軌道

途中駅となる堀切駅は、牛田駅から程近く、堤防脇の急カーブ上に位置しているため、ホームに停車する車両は傾いて停まらざるを得なくなり、ホームと車両との間にできる隙間は、落ちるのではないかと怖くなるほどです。

PC19024堀切駅

また、東武線の堀切駅と京成本線の堀切菖蒲園駅は、『荒川放水路』を挟んでそれぞれ反対に位置するようになってしまいました。
他にも『荒川放水路』によって影響を受けた交通機関や道路はあることと思いますが、現状だけを知っている方からすれば、人工の巨大水路であることや、その水面の下に家や村があったことなど、はなから知らされていないか、知っていても忘れられていくものなのでしょう。
そして、現状に合わせた駅や橋が生まれ、またそういうインフラ類に応じた暮らしが普通となっていくのでしょう。
次回以降、新年には、『荒川放水路』によって分けられてしまった古隅田川の流れをご紹介致します。

とりあえず、庶民的には、せんべろの聖地「四ツ木駅」が、場所は変わってしまっても存在していることを素直に喜びたいものです。呑兵衛としては実に喜ばしい限りなのです。そして、これからもお父さんたちのクダを巻く場として、あり続けてくれればと、願うばかりです。千円でべろべろ! 何と素晴らしいことなのでしょう。


さてさて、本年は何とか週一ペースを維持して当ブログを展開することができ、正直ちょっとホッとしております。付き合っていただいた皆さんからすれば駄文を週一で読まされるわけなので、ツラい一年だったかもしれませんが、そのおかげで何とかここまで続けられました。お引き立ていただき、感謝の言葉もありません。
本年同様来年もいい年でありますことを願っております。良い年をお迎え下さい。


 ※古隅田川(東京)地図・・・クリックしてご覧下さい。

注)拙ブログにて紹介しております流路地図は、拙ブログに記載している内容をご理解いただくための補助資料として用意しております。第三者に提供したり、共有したりすることを想定して制作しておりません。私的な探究心の備忘録としてご覧願えれば幸いです。

本文中にてご紹介する人物(キャラ等も含む)は、原則として、敬称を略すことで統一しております。しかし、ちゃらんぽらんな性格故、この原則は必然的になし崩しとなる可能性が高いものとご認識下さい。
敬称を略すことに深い理由はありません。略さないのであれば、できる限り公平性を保ちたいので、全員に何らかの敬称を考えねばならないことが負担になりそうな気がしただけです。基本、めんどくさがりなのです。
あしからずお許し願います。

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Posted on 2014/12/31 Wed. 00:00 [edit]

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