野火止用水:平林寺堀    -偽装工作に一役買った菩提寺の裏山- 

偽装:1 ある事実をおおい隠すために、他の物事・状況をよそおうこと。「心中に―した殺人」「―工作」 2 周囲のものと似た色や形にして姿を見分けにくくすること。特に、戦場などで行うもの。・・・goo辞書より抜粋



先日、平林寺に関する情報をネットから得ようと思い、いろいろな方のブログやHPを見ていたところ、衝撃的な説を発見しました。
その説を唱えている方によると、平林寺には数々の不思議があり、その不思議を解き明かす上で、野火止用水:平林寺掘は重要なファクターとなっているようなのです。

平林寺 野火止用水

まず、最初に断っておきたいことなのですが、この方が主張する説を正しいと思っている訳ではありません。どちらかというと、ちょっと無理があるのではないのかな、という感覚なのですが、唯一賛同できた点が、野火止用水は、平林寺での坊さんのためにしろ、開拓農民のためにしろ、僅かな人数のために莫大な資金を投じてそれらの飲み水を確保するために川を通す----となると、事はどう考えてもバランス上おかしいのです、という主張です。初回でも述べた通り、投資3000両に対する費用対効果の観点から検討すると、野火止用水は投資効率が不明瞭、という点です。

江戸時代と現在では、生活の仕方も、人々の使っていた品物の種類も物価状況も違うので、お金の価値を単純に比べることは困難なのでしょうが、あくまで参考となる例として、日本銀行金融研究所貨幣博物館の資料では「当時と今の米の値段を比較すると1両=約4万円、大工の手間賃では1両=30~40万円、蕎麦の代金では1両=12~13万円」という試算を紹介しています。
蕎麦代金の1両=12万円で換算しても、3000両は3億6千万円となります。
55戸の農家の飲水確保に、3億を超える投資を行うことは、通常考えにくいものです。

そこで、費用対効果の観点からも野火止用水の開削理由の正当性?を考慮したご高説を発表されていましたので、参考とさせていただくことにしました。
ただし、この拙いブログで紹介する許可を得ている訳ではありませんので、具体的なURL等の掲載は差し控えさせていただくことにします。しかし、主張されている具体的内容に関しては、間違いのないよう、(勝手ではありますが)原文を貼り付けさせていただきます。原文は紫色の斜体文字になっています。

あまり引っ張ってもアレですから、平林寺掘を紹介しながら、この方が主張されているご高説にもふれていきましょう。

平林寺

平林寺については、チョット長くなりますが、平林寺のHPから紹介文を引用・貼付させていただきます。
関東にその名を知られる平林寺は、武蔵野の一角、野火止台地に約13万坪の境内地を有する禅寺である。
正式には金鳳山平林禅寺(きんぽうざん へいりんぜんじ)といい、臨済宗妙心寺派の禅刹であり、開発されていく武蔵野にあって往昔のたたずまいを残している。
平林寺の縁起をたどると、南北朝時代の永和元年(1375)武蔵国騎西郡渋江郷金重村(さいたま市岩槻区)に、大田備中守によって建てられたことに始まる。
開山は当地鎌倉建長寺の住持をしていた石室善玖禅師で、岩槻城主の大田備中守春桂蘊沢居士の帰依により、開山されたものである。その後、天正18年(1590)5月、豊臣秀吉の関東経略による岩槻城攻めの際、兵火によって伽藍の大半を焼失した。
翌年、江戸入りした徳川家康は、鷹狩りで岩槻を訪れた際、焼け残った塔頭の聯芳軒に休息し、軒主乾叟から名僧石室禅師開山による平林寺の由緒を知り、伽藍再建のため朱印状を与えて、騎西郡内50石の土地を寄付した。さらに、天正20年には、家康の手習い同輩であった駿河国臨済寺の鉄山宗鈍禅師を迎えて中興開山とした。
続く雪堂禅師の代に山門・仏殿・衆寮等の伽藍を修造して旧観に復したが、これには中興された平林寺の檀那である大河内氏の外護に拠るところが大きかった。
元和4年(1618)大檀那である大河内秀綱が死去し、平林寺が葬送の地となった。それ以来、大河内氏の霊廟となるのだが、秀綱の孫にあたる信綱が、大河内家から長沢松平家へ養子に入り、のち別家して大河内松平家を興し、平林寺を祖廟とした。
幕府の老中で、川越藩主となった松平信綱は、江戸と川越の中間にある所領、野火止の原野に平林寺を移し、先祖供養の地にしようとした。だが当時の住持、幽巌禅師は「池ができて澄んだ水があってこそ、月は来るものだ」と語り、「水の無い所に人が住めるであろうか、かような所に仏様は移転を喜ぶであろうか」と、たとえ話で諭したと伝える。
ところが承応4年(1655)信綱は玉川上水完成の功績により、同上水からの分水が許され野火止の村々を潤すことができたため、幽巌禅師の憂いは払拭された。
しかし、寛文2年(1662)に信綱は志半ばにして世を去った。
父信綱から平林寺移建を託された子の輝綱は、喪の明けるのを待って移転を幕府に願い出た。幕府は当時、寺を新規に建てることを規制していたが、遺言を遵守しようとする輝綱の切なる願いを聞き入れた。
翌3年、輝綱は岩槻平林寺の伽藍及び墓石に至るまで野火止に移させた。これに伴い、幕府は同5年7月に、岩槻の寺領に替えて新座郡西堀村と西屋敷の分、合わせて50石を野火止平林寺の寺領として安堵したのである。

引用文献
『平林寺』藤井孝文 さきたま出版 平成21年


廃鉄:武州鉄道散策の項目で、ほんのわずかですが紹介した岩槻の平林寺は、上記のような経緯をもって新座の地に移されてきた訳です。

さて、野火止用水ですが、西堀分岐点で本流から分かれた平林寺堀は、一路平林寺を目指して進みます。

西堀分岐点②

境内の中では、おおむね2つの流れに分かれています。
ひとつは、本堂の西側にある心字池の方から伽藍を取り巻くようにして山門、総門に至る流れと、伽藍に届く前に石灯籠のあるあたりから放生池を経由し、仏殿の前で合流する流れです。

平林寺境内

境内で分かれた流れが再び合流する地点のすぐそばには、関東では非常に珍しいといわれる『高野槇』があります。その樹齢は、500年とも600年ともいわれ、岩槻から移転する際に当地に移植されたといわれています。

高野槇

高野槇、と言えば高野山、高野山と言えば弘法大師、弘法大師と言えば真言宗・・・でしょうね。
従って、平林寺は禅宗の寺でありながら、どっかで真言宗に関わっているのかも知れません。尤も、禅宗の寺すべてが槇の木を門前に植える風習があるというので、平林寺も単にそれに右倣えをしたのかも知れませんが・・・。然し、そうだとしても何故、禅宗の寺が真言宗に関係を持つのかその理由が分かりません。


ご本人は理由がわからない、とおっしゃっておられますが、ちゃんとご自身の見解を掲載されておいでです。
その見解を記載する前に、もうひとつ弘法大師とのいわれがある案件をご紹介いたします。

放生池は山門を入って間もなく、左の方角にある平林寺のシンボリックな池です。
池の中の島には弁財天が奉安されてあります。この弁財天の霊像は弘法大師の作として古くから庶民の信仰を集めてきた、とあります。
弘法大師がここでも登場してきます。何故ここにも登場してくるのか分かりません。平林寺は禅宗の寺なのです。そこに真言宗の大師様が現れてくるのは本当に不思議です。
池は いつも一杯の水で満たされています。現在の水はポンプで地下から汲み上げられているとされていますが、奇妙な事にかってこの池に野火止用水の水が利用されていたという記録はありません。それが本当だとすれば、一体、この池の水は何によって満たされてきたのか不思議な事です。
但し、記録とは別に、実際にこの池の周囲を見ると、ここにはちゃんと野火止用水が引かれてあるのが分かります。
どういう訳でしょうか。
野火止用水がもし灌漑用に作られた、としたら、その恩恵を最もよく受けたのはこの池のあたりや平林寺の外を含めた周囲一帯の地域かも知れません。台地の中では比較の意味でこのあたりは低い地域なのです。雨水が溜まるほどですから用水の水は効率良く周囲に滲み込んでいった筈です。
  (中略)
然し、その事はこの台地にも水は有る、という認識を誰にでも与える結果に繋がりました。台地の上では限られた範囲であったにせよ水は手に入ったのです。
但し、その水は「溜まり水」であって「流れる水」ではありませんでしたが。 
実は、信綱はその「流れる水」が欲しかったのではないだろうか、そうも考えてみました。----そうである筈の理由があるのです。


いよいよご高説の核心に近づいてまいりました。

当時、井戸一本掘る費用は約10両だったとの記録がありました。野火止用水の沿線に仮に100本の井戸を掘って1000両です。用水を築く費用と比較して、こちらの方が断然安く済む、という事実はもう公知の事実のようになっていると思いますよ。 
現在の三芳町方面に大きく広がっている三富地区の、碁盤目にキチンと区切られた広大な農地は、野火止用水と同じ時代に作られた(実は多少新しい)理想的な農地ですが、それは、十一本の深井戸(掘抜き井戸)によって生かされてきました。台地に井戸を掘るのは別に不可能な事ではなかったのです。三富の大規模農地は水の無い台地の上に現在でも立派に存在して豊穣な実りを確実に地域住民に分け与えてくれています。(但し、平林寺のある野火止台地と三富地区のある所沢台地では地層や水脈に相違があって一概には同じようには比較出来ない、という説を承知の上ですが。)
野火止台地には飲み水が少なかった、---それは井戸を掘るのが大変であったため、----大変ではあったが掘れば掘れた、然し、掘らなかった。----何故か、それは掘る必要は誰にもなかったからだ。----そんな論法になると思うのですが。
ともあれ、信綱は三富地区農地のように深井戸を掘って農地を開拓する方法は選択しませんでした。彼がやったのは大した量の水の流れない小さな川を作る事だけでした。農地の開拓開墾など最初から考えてはいなかったのです。---そう考えるほかありません。


先を急ぎましょう。

仮に、そんな野火止台地に足を踏み入れて、そこで何かを長期的に組織的にやろうとした者が居たとしたら、どのような展開を想定すれば無理のないスト-リ-になって完結するか----それを考えてみたいと思います。
まず、それは当然あまり結構な仕事ではない仕事をやろうとした者達に違いない、と思いました。とは云っても強盗とか山賊とかその類いの悪党ではなくして、悪い事ではないがなるべくなら人目を避けた方がやり易い、その程度の仕事だと思います。人目につきたくないと云う事は、敢えて人目につく事で相手に無用の刺激や誘惑を与えたくない、又、逆に他人からの介入を許したくない、そのような気持ちを共有する団体の仕事、そう推測をしてみました。
密集している雑木林はその存在自体、人を寄せつけない自然の防波堤の役を果たしていたように見えますが。


平林寺雑木林 平林寺雑木林②

流れる水がほしかった理由というのがコチラです。

平林寺附近を歩いてみると分かるのですが、平林寺の裏の方のヘリを通って、野火止緑道に沿って素通りする野火止用水の「本流」と平林寺の中に入って行く「平林寺掘」の間には高低に差があります。
目見当ですが、その差はざっと3メ-トル位ありそうです。それは本流にある「伊豆殿橋」の場所とその数十メ-トル離れている平林寺に入り込む「平林寺堀」の場所を実際に眺めてみると納得出来ます。3メ-トル高く寺領に入った用水は領内で使用された後、本流と同じ程度の高さになって正門から出て行っています。
と云う事は、平林寺に入る箇所と、平林寺の正門から出て行く箇所の用水には3メ-トルの落差があって、それは寺領内の事情のためにそうなっているというのが、この場合の論点です。問題は領内の必要とされた事情とは何だったのか、という事になりますが、勿論それは、領内で水車を使うためである----これが結論です。寺内の飲料用だけだとするならば、特別に寺領内に限って落差をつける必要はなかった筈ですね。


さて、以上長々とご紹介してまいりましたが、要点をまとめてみましょう。

ここで論点を箇条書きにしておきます。
1-野火止台地には太古の昔から、多摩川の増水による自然に出来た多数の川筋があった。
2-その川筋を利用して用水路を作った者達がいた。それは真言宗信徒であった。
3-真言宗信徒は現在の平林寺の地に用水を引き込み、その水流を利用して水車を回し金属の加工をやった。
4-真言宗は歴史的に山岳修行者と組んで、全国的に鉱物発掘を行っていた。新座は彼等の関東でのネットワークの中心位置にあった。
5-真言宗の金属加工はやがて中止され、信徒達は多量の鉱物資源や道具などを残して去っていった。その原因は大口である秩父での、銅の産出の枯渇にあった。
6-松平信綱は彼等の遺産を発見しそれを踏襲しようと決心した。
7-信綱は古代の痕跡を土台にして改めて用水路を作った。その痕跡利用により用水路は40日間という驚くべき短期間で完成した。
8-信綱には農地開拓開墾の計画は最初からなかった。
9-寺領の半分を金属工場とした。その境界線はお針小屋の場所、立派な門を立てて区別した。水路は門の真ん中を通り、水車を回しそのままトンボ池に達した。
10-金属加工は、主に銅製品であった。信綱は将軍家や大名向けの調度品などを生産し多くの利益を得る事が出来た。
11-この地域での銅の取り扱いによって、長く銅は地域産業をリ-ドし、城北から川越街道一帯に軽工業を発達させることとなった。その代表的な製品は光学製品であった。
12-禅宗の平林寺は今日に至るまで、宗派の違う真言宗を大切に扱って来た。平林寺の存在は真言宗があっての事である---この事を最も良く知っていたのは知恵伊豆.松平信綱だった。
 これが、これまでの結論になります。


つまり、平林寺は寺社としての伽藍のある部分の裏手に川越藩の秘密工場を設けており、その秘密工場にて銅製品の加工を行い、将軍家や諸大名等を相手に儲けるためのものであった、ということです。
その金属加工の動力源が、流れる水である野火止用水によって動かされる水車であり、その動力を得るための水路を通す後付けの理由が、菩提寺である平林寺の移転であった、と結論付けています。

この説の良い点は、
①野火止用水開削の費用対効果を説明できること。
②野火止“上水”ではなく“用水”といわれることへの理由付けができていること。
③平林寺移転とからめて野火止用水が引かれていることへの説明が可能なこと。
であると、考えられます。

この説を裏付ける根拠として、黒目川沿いの埼玉県朝霞・新座市近辺には伸銅産業が発展し、地場産業として現在も継続されていることがあげられます。
また、川越街道沿いには、光学産業が栄えた事実もあります。
板橋区の大山近辺には、かつて望遠鏡双眼鏡輸出検査協会、望遠鏡双眼鏡技術協会の2つの公の機関がありましたし、志村には服部時計店精工舎の流れからなる業界最大手のT社があります。
第二次世界大戦によって都内城北地区から川越方面に疎開した部品屋さんや組立屋さんたちは、現在も光学機器の卸売や眼鏡事業に乗り換えたりして、会社を維持・継続されていたりします。

一方、この説に疑問を感じる点もあります。
①臨済宗 妙心寺派の寺院である平林寺に真言宗を持ち出す無理があります。高野槇の移植や放生池の逸話は真言宗とは切り離して考えるべきものかもしれません。
②「真言宗信徒のネットワークが新座を介在していた、あるいはその中心地が新座であった」とする根拠がありません。もっと活動場所に近い山間部に中心地はあったのではないでしょうか。
③「野火止台地には太古の昔から、多摩川の増水による自然に出来た多数の川筋があった、あるいは、その川筋を利用して用水路を作った者達がいた。それは真言宗信徒であった」という根拠が希薄です。舌状台地の稜線付近を延々と流れる自然河川というものの存在が考えにくいです。
④「信綱がやったのは大した量の水の流れない小さな川を作る事だけでした。農地の開拓開墾など最初から考えてはいなかったのです」といっていますが、野火止用水は幅4間の築堤に2間の水路幅の流れを通しており、決して小さな川ではなかったと思われます。
等々があげられます。

伊能忠敬の測量技術の精度は目を見張るものがあります。江戸時代の和算の水準はとても高いものがあり、過去が現在よりも劣っている、と決めつけることはいかがかと思います。
用水を短期間で正確に開削する技術やノウハウがないのでは、などと過去を低く見るようなことは慎んだ方がよろしいかと考えます。
また、フェイクの細流をもって当時の野火止用水を想像することも間違いの元だと思います。支流たちは細流だったのかもしれませんが、本流には結構な水の量が流れていたと思います。


ここまで2つの説をご紹介いたしました。
①急拡大する江戸の食糧事情を支えるために野火止台地を開墾するという、幕府存亡?のプロジェクト説。
②川越藩の秘密工場?をカムフラージュする平林寺の移転と動力源のための用水開削。

さて、皆さんはどのように思われますか?

 ※野火止用水流路地図・・・クリックしてご覧下さい。


本文中にてご紹介する人物(キャラ等も含む)は、原則として、敬称を略すことで統一しております。しかし、ちゃらんぽらんな性格故、この原則は必然的になし崩しとなる可能性が高いものとご認識下さい。
敬称を略すことに深い理由はありません。略さないのであれば、できる限り公平性を保ちたいので、全員に何らかの敬称を考えねばならないことが負担になりそうな気がしただけです。基本、めんどくさがりなのです。あしからずお許し願います。
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Posted on 2014/05/07 Wed. 00:00 [edit]

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2017-04