蔵前堀    -浅草御蔵にみる米本位制から江戸期の文化まで- 

文化:1.人間の生活様式の全体。人類がみずからの手で築き上げてきた有形・無形の成果の総体。それぞれの民族・地域・社会に固有の文化があり、学習によって伝習されるとともに、相互の交流によって発展してきた。カルチュア。「日本の―」「東西の―の交流」 2.1のうち、特に、哲学・芸術・科学・宗教などの精神的活動、およびその所産。物質的所産は文明とよび、文化と区別される。 3.世の中が開けて生活内容が高まること。文明開化。多く他の語の上に付いて、便利・モダン・新式などの意を表す。「―住宅」・・・goo辞書より抜粋



たいへん遅くなりましたが、今回の平成28年熊本地震で被災された皆さまに対して、心からお見舞い申し上げます。一日も早い復興を祈念しております。
今回のテーマでは、終盤頃に火の国熊本と江戸との接点をちょっとだけ採り上げてまいります。

『不忍池』より流れ出て、蔵前の地に於いて『隅田川』に注ぐ『忍川』と『鳥越川』の流路を前回まで紹介致しました。
今回は、『鳥越川』と『隅田川』の合流地点に設けられた「浅草御蔵(あさくさおくら)」についてふれていきます。

江戸幕府が天領郷村から収納する年貢米や買上米を出納、保管する倉庫を“御蔵”または“御米蔵”といい、1620年(元和6年)、江戸浅草橋の近くに設置された御米蔵を「浅草御蔵」といいます。収納米の多くは旗本や御家人などの幕臣の給米 (切米) にあてられました。米穀出納を取り扱った幕府財政の中心機関で、大坂、京都二条のそれとあわせて“三御蔵”と称されました。町年寄樽屋藤左衛門元次が設計し、『隅田川』右岸の湾入部(現東京都台東区蔵前1・2丁目)を埋め立て、川側344間(約625m)の間に船入り堀を設けて、総面積3万6648坪(約12ha)の敷地が造成されました。

P327010隅田川長流図巻

「浅草御蔵」は、『隅田川』の右岸に上流から一番、二番と数える8本の堀を作り、それに面した67の米蔵が連なりました。
この蔵の米が旗本や御家人たちにとっての扶持米、すなわち今でいう給料となります。そして、これを管理出納する勘定奉行配下の蔵奉行をはじめ大勢の役人が、敷地内や新たに鳥越山北側の『姫ヶ池』などを埋め立てて役宅を与えられて住むようになりました。

四番堀と五番堀の間には、「首尾の松」という枝を川面に垂れた松の木がありました。この名前の由来には諸説あるようです。

首尾の松

首尾の松の由来としては、
■寛永年間(1624年 -1642年)に『隅田川』が氾濫した際、陣頭指揮にあたっていた徳川家光の面前で、謹慎中の老中阿部忠秋がさっそうと人馬ともども飛び出して川へ飛び込み、見事対岸に辿り着いた。これを家光が賞賛して謹慎を解いたという。これに因んで傍らにあった松を「首尾の松」と称したという説。
■吉原遊郭へ通う客が、『山谷堀』から『隅田川』へと至る船上で遊郭での自慢話をし、この松の陰によって「首尾」を語り合ったからという説。
■海苔の養殖に「ひび」と呼ばれる杭が『隅田川』対岸の「横網町」にたくさん並び「百本杭」とも呼ばれていた。この「ひび」が江戸訛りで「首尾」となり、近くにあった松を「首尾の松」と呼んだとする説。
などがあります。

残念ながら、江戸中期の安永年間に大風に倒れ、その後何度か接ぎ木を試みたものの明治期までには枯れてしまったようです。

首尾の松

現在の松は7代目だそうです。往時のような枝ぶり豊かに川面に広がる様となるには時間がかかるのでしょうが、長い目で見守りたいと思います。

さて、ここからが今回のテーマにふれる部分です。

御蔵の西側にある町は江戸時代中期以降「蔵前」と呼ばれるようになりました。多くの米問屋や札差が店を並べ、札差は武士に代わって御蔵から米の受け取りや運搬・売却を代行しました。札差は預かった米から手数料を引いて米と現金を武士に渡す一方、現物で手元に残った分の米を小売の米屋たちに手数料を付けて売るほかに大名や旗本、御家人に金も貸し付けて、莫大な利益を得ていました。
札差の“札”とは米の支給手形のことで、蔵米が支給される際にそれを竹串に挟んで御蔵役所の入口にある藁束に差して順番待ちをしていたことから、札差と呼ばれるようになったのだそうです。
金に困った武士は、自分の蔵宿である札差に、次回支給される蔵米の受領・売却を依頼すると確約し、借金をするようになりました。このようにして、いつしか旗本や御家人に蔵米を抵当にして金を用立てるという金融業務が、札差の重要な役割となっていきました。

江戸時代の経済は米本位制です。各藩は自国の年貢米を大阪や江戸の蔵屋や札差に預けて換金し、生活の糧としていたことは上述の通りです。

徳川幕府の貨幣制度

ところで、幕府の当初の資産は、天領の4百万石と金銀の鉱山や長崎貿易などで4百万両を優に越えていたはずなのに、時代が下るにつれ8代将軍吉宗の頃(1720年以降)には13万両に減ってしまっていたそうです。
いくつかの理由が考えられるのでしょうが、大きな要因としては、1657年の振袖火事や大奥への財政支出が巨額だったのと、幕府直轄の金銀採掘量が底を尽いたため、と言われています。
他方、米の生産量は新田開発や生産技術の向上により増加の一途を辿っています。米は増えるが金銀の採掘量が減るとどうなるか。当然米の価格は下落。その結果、江戸初期に米一石金一両(銀60匁)だった相場が、吉宗の享保年間には半額となってしまっています。
急場しのぎとして時の勘定吟味役、荻原重秀は貨幣を改鋳して幕府財政は一時潤ったものの、凶作や地震で雲散霧消した挙句、荻原は失脚。その後釜の新井白石が貨幣の質をもとに戻してしまったため、逆にすごいデフレを招いてしまいました。現代のバブル崩壊後のデフレ現象とよく似ていますね。

江戸の物価は地方の五倍といわれたようですが、この結果収入が半減した江戸住まいの各藩の武士の財政は急速に悪化し、札差から多額の借金を背負う羽目になりました。こうした武士の窮乏とは裏腹に、金利15%前後で金を貸した方の札差や両替商はぼろもうけといえます。

両替商

結局、士農工商とはいえ、武力が必要とされない平和な時代には、政治は武士でも経済は商人が権力を手中にしたと考えてよいのではないでしょうか。これらがやがて三井、三菱、住友、芙蓉などの銀行を要(かなめ)とする財閥へと変貌してゆくことを思えば、武力を必要としない現代は商人や女性の世の中といえるでしょう。江戸では現金掛け値なしで成功した三井高利の越後屋、近江屋などの上方商人、振袖火事の復興景気で儲けた紀伊国屋、奈良屋、紀文などの材木商が台頭、その豪商ぶりは吉原でのお大尽遊びにまで及んでいます。他方、武士は「貧乏ひま人」が多かったようです。戦さを生業とするのに平和なのだから仕方がないといえば仕方がないのですが....。
「貧乏ひま人」対策として、「寄合」「小普請」などの閑職を設けたり、「火付盗賊改め」、「見回り組」など本来不要な役職をあえて設けて武家の失業救済に充てざるを得なかったようです。今日、お役所仕事(公務員)が肥大化したのも、もとをたどればこのあたりにあるのではないでしょうか。こうした網からもこぼれてしまった浪人たちは、社会のあぶれ者となって「由井正雪の乱」に加わるか、雇われ用心棒、最悪の場合は盗賊になるしかなかったのでしょう。

このように、政治面では強固だった幕藩体制も、米本位制を中心とする経済面では富が武士から町人へと流れ、構造的に財政窮乏を招くシステムになっていました。財政再建に向け享保、寛政、天保と3回改革が行われたとはいえ、質素・倹約の励行や貨幣改鋳は所詮付け焼刃に過ぎなかったようです。

家康は江戸を中心に武家社会を築きましたが、大阪の商人については彼らの自主性にある程度任せていたようです。この結果、全国の物産は大阪に集中し、米相場も大阪で決まったように、秀吉以降の経済の中心は相変わらず大阪でした。
江戸の上質な物産も上方「大阪」から江戸に「下る」船便ルートで運び込まれ、それ以外の経路から来た物産は「下らない」ものになってしまいました。人口の大半は武士である江戸に比べ、住民のほとんどが商人である大阪が潤ったのはいうまでもないことです。
かくして淀屋や鴻池は膨大な財を築き、その富でゆとりができた大阪から井原西鶴(浮世草子)や近松門左衛門(浄瑠璃脚本)芭蕉(蕉風俳諧)らの上方文化が芽生えていきます。これを元禄文化といい、時代とともに文化の中心も江戸へと移り、江戸後期の化成文化へと引き継がれていきます。
江戸時代前期に栄えた町人文化である元禄文化のときには、文化の中心は上方でしたが、このころから文化の重心は江戸に移っていきます。文化の担い手として町人たちが大きな役割を果たし、活発な経済活動や寺社参詣の流行によって多くの人の往来を触発し、人々の交流によって全国で様々な文化を生み出していくようになります。

柄にもない文化論はこの程度にしておきましょう。実は今回いろいろ調べていると熊本と江戸の蔵前には意外な接点がありました。
「浅草御蔵」は造営の際に、年貢米などを収める蔵の石材を遠く肥後(熊本)から運搬していたそうです。肥後には「火の国」とも言われる通り阿蘇山(あそさん)をはじめとする火山があり、噴火した溶岩によって良質な石材を豊富に産み出していたからです。
いくつか例を挙げると、「島崎石」と呼ばれる安山岩は熊本城の石垣などにも利用されていますし、宇城市の「三角石」は建築用石材に最適だそうです。同じく宇城市の「竹葉石」と呼ばれる蛇紋岩は、国会議事堂内の暖炉にも使用されています。
しかし、肥後から江戸までの輸送は困難を伴うことも多く、途中の遠州灘沖でしばしば遭難に逢い困っていたのだそうです。そこに稲荷神が現れ、霊験を示したおかげで安全に航海できるようになったということです。その神徳奉賛のため社を浅草御蔵の中に創起し、「楫取(かじとり)稲荷神社」と称え、今日に至っています。

楫取稲荷神社

紆余曲折はあったようですが、現在「楫取稲荷神社」は「第六天榊神社」の境外摂社となっています。この「第六天榊神社」は、かつて「鳥越大明神」とともに三社(もう一社は熱田神社)としてあったものであることは前回記しました。現在は、移転して蔵前に鎮座しています。

第六天榊神社

「浅草御蔵」の総鎮守として、将軍家より格別に篤い尊祟を受けるとともに、公武衆庶の祟敬が篤かったといいます。

「楫取稲荷神社」の隣地には、かつて「蔵前国技館」があり、大相撲の他に格闘技やプロレスの興行に活用されておりました。
そもそも大相撲は、本所回向院境内で勧進を目的として開催していました(他深川、蔵前等でも興行)。明治に入り、この土地を回向院から購入して国技館を建設したのですが、戦後、旧両国国技館はGHQに接収されてしまい、相撲界はジプシー興行をせざるをえませんでした(後楽園球場、明治神宮相撲場=現在の神宮第二球場、浜町公園仮設国技館など)。
その間、戦前に購入していた蔵前の土地に、国技館建設の計画が持ち上がり、旧海軍戦闘機組立工場の鉄骨を安価で購入。これを蔵前国技館に仮設流用し、後に本設に以降し、安普請ながら蔵前国技館開館を実現しました。因みに、後数年遅ければ蔵前国技館でさえ鉄の価格高騰で難しかったと言われています。
現在、蔵前国技館跡地には、「東京都下水道処理施設(蔵前ポンプ場)」と「蔵前水の館」と言う資料館が建設されています。

蔵前水の館

「蔵前水の館」では、下水道管の中を実際に流れている下水の様子が直接見学できる23区で唯一の施設です。また、実際に使用していたマンホール鉄蓋の展示等もあります。暗渠マニアやマンホニストにはたまらない施設といえるでしょう。
さらに、蔵前の歴史や大相撲に関する展示もあります。盛りだくさんともいえるサービス精神旺盛な資料館ですね。

という訳で、慣れない文化論や経済論から何とか強引に水の話題に戻しました。次があれば、蔵前では格闘技の話題で進めていきたいものです。柄にもないことはしないことだ、ということがよくわかりました。

 ※谷田川・藍染川・忍川・鳥越川流路地図・・・クリックしてご覧下さい。

注)拙ブログにて紹介しております流路地図は、拙ブログに記載している内容をご理解いただくための補助資料として用意しております。第三者に提供したり、共有したりすることを想定して制作しておりません。私的な探究心の備忘録としてご覧願えれば幸いです。

本文中にてご紹介する人物(キャラ等も含む)は、原則として、敬称を略すことで統一しております。しかし、ちゃらんぽらんな性格故、この原則は必然的になし崩しとなる可能性が高いものとご認識下さい。
敬称を略すことに深い理由はありません。略さないのであれば、できる限り公平性を保ちたいので、全員に何らかの敬称を考えねばならないことが負担になりそうな気がしただけです。基本、めんどくさがりなのです。
あしからずお許し願います。
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Posted on 2016/04/27 Wed. 00:00 [edit]

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鳥越川    -内部告発的自浄作用=寝首を掻かれる事態ー 

寝首:寝ている人の首。・・・goo辞書より抜粋




前回、『不忍池』より流出する『忍川』を紹介し、『三味線堀』まで至りました。今回は、『三味線堀』より隅田川に注ぐ『鳥越川』について紹介致します。

『三味線堀』より南に、現在の「清洲橋通り」に沿って『鳥越川』の流れは始まります。『三味線堀』のすぐ南側には「高橋」が架かっていました
「おかず横丁」を通り過ぎ(おかず横丁との交差点には「鳥越橋」がありました)、「蔵前橋通り」との交差点である「鳥越一丁目」にて左折し、東に向かいます。この「鳥越一丁目」交差点に「任天堂東京支店」があります。かつては「柳盛座(りゅうせいざ)」という芝居小屋があった場所でしょうか。

P327032任天堂東京支店

「蔵前橋通り」に流れを移した『鳥越川』は、暗渠にお約束の銭湯の前を通過していきます。

P327031鳥越川帝国湯

ビルイン型の銭湯である「帝国湯」、確かタイル絵が富士山ではなくエベレストだったようなかすかな記憶があります。
「帝国湯」のすぐ先で南に東にと折れて行きます。ちょうどこのクランクに進む箇所は道幅が川の分だけ広くなっています。

P327028鳥越川曲がり角

このクランクに折れる箇所(柳島橋架橋地点)から南側に支流があったようです。現在の「東京都立忍岡高等学校」の敷地付近に池があったようで、その池と『鳥越川』を結ぶ支流が明治期の地図に存在しています。
また、このクランクに折れる地点の1ブロック隣(浦島橋架橋地点)の東側には、「JR総武線浅草橋駅」の下を抜けて『神田川』に注ぐ支流もあったようです。

P327027水路敷?

エアコンの室外機が完全に路上?に設置されており、通常の道路とは異なるたたずまいです。さすが水路敷。

さらに東に進むと、「鳥越神社」の南側に「甚内橋」が架かっており、現在は布団屋さんの一画に橋跡の碑が残されています。

P327026鳥越川

P401001甚内橋跡碑

もうお察しのことと思いますが、『鳥越川』のネーミングは、「鳥越神社」からきております。

P327024鳥越神社

「鳥越神社」は、651年(白雉2年)、日本武尊を祀って“白鳥神社”と称したとされ、前九年の役のおり、源義家がこの地を訪れ「鳥越大明神」と改めたと伝えられています。
前九年の役征圧のため源頼義、義家父子がこの地を通った際、『大川(隅田川)』に行く手を阻まれて、大軍を進めることに難儀したのですが、ある日白い鳥が飛んできて川の中瀬に立つのを見た際に浅瀬を知り、無事に『大川(隅田川)』を渡ることができたそうです。この白い鳥の案内を白鳥明神の加護とたたえ、「鳥越大明神」の社号を奉った、とされています。
江戸時代までにここには三社の神社(熱田神社、第六天榊神社、鳥越神社)が成り、一帯の約2万坪の広大な敷地を所領していたそうですが、1620年(元和6年)、江戸幕府が全国の天領からの米を収蔵するため、隅田川沿いに蔵(浅草御蔵)を造営することとし、この埋め立て用に大明神のある鳥越山を切り崩すことになり土地を没収されてしまったそうです。さらに、「鳥越大明神」の北側にあった『姫ヶ池』も鳥越山からの客土で埋め立てられ、大名屋敷などの御用地とされたのだそうです。

「甚内橋」よりさらに東へ進むと、旧町名である浅草猿屋町に「猿屋橋」が架かっており、ここから次の須賀橋(天王橋)のたもとに「鳥越河岸」がありました。
「猿屋橋」の付近には、印象的なマンホール群があります。

P327023新堀川合流地点付近

また、同様のマンホール群が『新堀川』との合流地点付近にも存在します。

P327019新堀川合流地点

『新堀川』は、つい先日までテーマとしていた『音無川』、『山谷堀』より分水を受けた流れで、「合羽橋」「かっぱ橋道具街」の名前の由来となった“合羽屋喜八”が私財を投げ打って整備したといわれる掘割です。

P327054かっぱ橋道具街

『新堀川』もいつかちゃんとテーマに採り上げたいものですが、例によっていつになるのか自分でも皆目見当がつかない状況だったりします。

『新堀川』と合流した先には、「須賀橋交番前交差点」付近に「須賀橋(または天王橋、鳥越橋)」が架かっていました。

P327002須賀橋交番

現在の「須賀神社」は、江戸期には「牛頭天王社」と呼ばれておりました。疫病にかかった娘のため親が願掛けしたところ、全快したのでお礼に団子を供えたという言い伝えにより、“団子天王様”として親しまれていたそうです。団子を奪い合う奇祭で有名です。
この「牛頭天王社」があったことから「天王橋」と呼ばれていましたが、 近くに小塚原刑場以前の鳥越刑場があったため「地獄橋」の別名もあったようです。
1772年に道路を拡張し、二橋並列としました。1本は架け替え時等のための予備の橋だったそうです。

浅草御蔵切絵図

この「須賀橋(または天王橋、鳥越橋)」から南側に、ちょうど現在の「江戸通り」の両端に神田川に向かう流れがありました。

「須賀橋交番」より先は、「浅草御蔵(あさくさおくら)」と呼ばれ、天領などから送られた米を保管する米蔵がありました。そのためここの地が「蔵前」と呼ばれるようになりました。

浅草御蔵跡碑

前述の通り、鳥越神社の丘陵を崩して『隅田川』の河畔を埋め立て、1620年に造られました。 享保年間(1716~36年)には、以前からあった竹橋、北の丸、和田倉、代官町、鉄砲州、本所の米倉も移転して、ここに統合されたそうです。  
「浅草御蔵」については、次回改めて採り上げます。

「須賀橋」紹介の際に「鳥越刑場」にふれましたので、「甚内橋」とも所縁のある話題を採り上げておきましょう。
江戸時代の初頭に、高坂(こうさか)甚内という忍者がおりました。武田氏に仕えた甲州流透破の頭領だったそうです。
武田家臣の高坂氏(香坂氏)の出で、一説には高坂昌信の子とも孫とも言われております。江戸の吉原を仕切った庄司甚内(甚右衛門)、古着市を仕切った鳶沢甚内と共に三甚内と呼ばれています。
武田氏が滅亡したのち、宮本武蔵に拾われ、その弟子となるも私利私欲に走って逃走したという伝承もあります。やがて江戸へ出てきて、盗賊となります。主家武田家の再興をはかったといいますが、江戸から東海道中に於いて散々に悪さを働いたようです。

高坂甚内

これはいつの時代にも良くあることですが、まだ治安が安定していない頃は、権力者が裏社会の実力者と組むことがあります。
高坂もそういう一人で、徳川家康に接近し、裏社会に関する様々な情報をもたらしました。
当時江戸の町を荒らし回っていたのが、風魔一族。風魔は小田原の北条氏に仕えた忍者の一派で、北条氏が滅んだのちは、敵だった徳川の支配する江戸を荒らし回るのは至極当然のことでした。元が忍者だっただけに、幕府もなかなか取り締まれなかった訳です。
同じ忍者であり、裏社会の実力者高坂にとっても風魔は邪魔な存在でした。そこで高坂は風魔の組織、潜伏場所を探り、その情報を幕府に通報しました。1603年、風魔の頭領、5代目風魔小太郎は捕らえられます。
その後、社会が安定してくると、たとえ協力者でも裏社会の人間は政権にとって邪魔になってくるものです。風魔という最大の問題が消え、江戸の治安が安定してくると、今度は裏社会で大きな力を持つようになった高坂自身が危険視されるようになりました。幕府はついに高坂の捕縛命令を出し、高坂は逃走。10年にわたって逃げまわります。彼を支持し匿う人もそれなりに多かったのでしょう。
しかし彼は「瘧」に罹ってしまいます。今で言うマラリアとみられる病気です。逃げられなくなった高坂は隠れ家を密告されて捕らえられ、処刑が決まります。市中引き回しの上、処刑場へ連れてこられた高坂は見物に来た人々に向かって叫びました。
「我、瘧にあらずば何ぞ召し捕れんや。我ながく魂魄を留め、瘧に悩む人、我を念ずるものあらば、これを平癒なさしめん!(私は瘧にさえ罹っていなければ、捕らえられることはなかっただろう。だから私はこの世に長く魂魄を留めるから、瘧に罹って苦しむ者は、私に祈るが良い、さすれば治してやろう)」
彼は1613年(慶長18年)に浅草鳥越の刑場で処刑されました。人々は処刑場のそばに社を建て、祀りました。これがのちの甚内神社です。江戸の庶民は、病に罹ると神社に詣でて彼に祈ったといいます。

甚内神社

ところで、江戸初期の三甚内と呼ばれる裏の実力者である鳶沢甚内。この男も盗賊でしたが、幕府に捕らわれた際に盗賊らの情報提供を協力するから古着市の支配権を認めてくれ、と申し出て認められた人物で、この鳶沢甚内が高坂甚内の居場所を密告した張本人だといわれています。寝首を掻かれるというのか、歴史は繰り返すというのか、油断も隙もない構図が見てとれます。

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本文中にてご紹介する人物(キャラ等も含む)は、原則として、敬称を略すことで統一しております。しかし、ちゃらんぽらんな性格故、この原則は必然的になし崩しとなる可能性が高いものとご認識下さい。
敬称を略すことに深い理由はありません。略さないのであれば、できる限り公平性を保ちたいので、全員に何らかの敬称を考えねばならないことが負担になりそうな気がしただけです。基本、めんどくさがりなのです。
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Posted on 2016/04/20 Wed. 00:00 [edit]

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忍川    -花見など関係なく、年中いつでも呑む幸せ- 

花見:花、特に桜の花を眺めて楽しむこと。「たらちねの―の留守や時計見る/子規」・・・goo辞書より抜粋




昔の石神井川の流れである『谷田川(藍染川)』を紹介してからある程度の時間が経過してしまいました。『谷田川(藍染川)』の流れが注いでいた『不忍池』より、その先の流れについて紹介する機会を数回ほどいただきたいと存じます。

現在では流入も流出もなくなってしまった『不忍池』ですが、昭和の初頭までは、『不忍池』より流出する流れがありました。『不忍池』より上野広小路の「三橋」を抜けて立花飛騨守や酒井大学守、佐竹右京太夫らの屋敷堀を巡り『三味線堀』に至る『忍川』と、『三味線堀』より蔵前の御蔵に至り『隅田川』に注ぐ『鳥越川』とがありました。
今回は、『忍川』について案内致します。

『不忍池』水門より流出した流れは、

P327063不忍池水門

『不忍池』外周の西縁(にしべり)に架かる「龍門橋」あたりで西縁の流れと合わさって『忍川』となり、東に流れを進めます。この『忍川』の始まりのあたりに小さな滝があったようです。地元の古老は“ドンドン”と呼ばれていたような記述を何かで見た記憶があるのですが、定かではありません。
西縁が暗渠化された際、「龍門橋」等々の西縁に架かっていた橋も廃止されましたが、「龍門橋」は碑となって残っています。

P330002龍門橋碑

上野広小路には、火災の延焼を防ぐために幅の広い道路となっており、そこに「三橋」と呼ばれる3つの橋が架けられていました。

上野三枚橋之図

3つの橋のうち両端の橋は一般庶民が渡る橋で、真ん中の橋は「上野寛永寺」に将軍が墓参の際に通る御成道として架かっておりました。
この『忍川』に3つの橋がかかったのは、1657年(明暦3年)1月のいわゆる“振り袖火事”の後、広小路の道幅が拡張されてからのことで、それまでは「御橋」と呼ばれていたそうです。
明治23年には内国博覧会の混雑を予想して、3つの橋を一つにし、大正5年には「三橋」の取り壊しが始まり、忍川は暗渠となりました。

非常に紛らわしいのですが、現在の「中央通り」、江戸時代の「下谷広小路(現中央通り:上野広小路)」に架かる橋が「三橋」で、現在の「昭和通り」にあたるところに架かる橋が「三枚橋」です。

上野広小路MAP②

残念ながらこの「三橋」と「三枚橋」が混同されており、上掲の錦絵のタイトルも「三枚橋」となっていますが、本当は「三橋」のはずです。

「上野広小路」を横切った流れは、現在の「アメ横センタービル」の敷地内をぬけ、JRのガードに沿って南に曲がります。

P330010アメ横センタービル

ミリタリーグッズの取り扱いで有名な某店のところで東に折れ、ガードをくぐります。

P327061忍川橋架道橋

P327060忍川橋架道橋

アメ屋横町を後にした流れは東に進み、「昭和通り」で首都高速1号上野線をくぐります。ここに前述の「三枚橋」が架かっておりました。
P327059忍川

流路の上がちょうど上野出入口付近にあたります。「昭和通り」、「首都高速1号上野線」をくぐった流れは、筑後柳川藩立花飛騨守の屋敷堀となり、東側の酒井大学守や戸田因幡守の屋敷堀を経由して南に折れ、出羽久保田藩佐竹右京太夫の屋敷堀に向かう流れと、そのまま東に進み、『音無川』の流れを汲む『新堀川』に注ぐ流れとがありました。

現在、酒井大学守の屋敷跡は「東京都立白鴎高等学校」となっており、

P327045都立白鴎高校

P327043都立白鴎高校

出羽久保田藩佐竹右京太夫の屋敷(佐竹っ原)は現在「佐竹商店街」となっており、全長330mの全蓋式アーケードを設け、近くて便利な商店街として親しまれています。
佐竹商店街の歴史は、明治の初年に屋敷跡に見せ物小屋、寄席、飲食の屋台等が並ぶなどして盛り場としてにぎわい、下町情緒豊かな商店街として発展したものだそうです。

P327035佐竹っ原案内

この出羽久保田藩佐竹家の御典医藤井玄淵によって創製され、藩薬として重宝されていたものが有名な“龍角散”です。

龍角散

龍角散は、明治に廃藩となった出羽久保田藩佐竹家から藤井家に下賜され、大衆薬として売り出されました。

出羽久保田藩の屋敷の東隣には、『三味線堀』と呼ばれる“8分音符”のような形状をした堀がありました。

三味線堀周辺MAP

現在の清洲橋通りに面して、小島1丁目の西端に南北に広がっていた。寛永7年(1630)に鳥越川を掘り広げて造られ、その形状から三味線堀とよばれた。一説に、浅草猿屋町(現在の浅草橋3丁目あたり)の小島屋という人物が、この土砂で沼地を埋め立て、それが小島町となったという。
不忍池から忍川を流れた水が、この三味線堀を経由して、鳥越川から隅田川へと通じていた。堀には船着場があり、下肥・木材・野菜・砂利などを輸送する船が隅田川方面から往来していた。
なお天明3年(1783)には堀の西側に隣接していた秋田藩佐竹家の上屋敷に3階建ての高殿が建設された。大田南畝(おおたなんぼ)が、これにちなんだ狂歌をのこしている。
 三階に 三味線堀を 三下り 
   二上り見れど あきたらぬ景
江戸・明治時代を通して、三味線堀は物資の集散所として機能していた。しかし明治末期から大正時代にかけて、市街地の整備や陸上こうつうの発達にともない次第に埋め立てられていき、その姿を消したのである。
 平成15年(2003)3月  台東区教育委員会


台東区小島1-5には、このような説明文の掲載された案内板があります。

P327034小島アパート(三味線堀)

P327036三味線堀案内

『三味線堀』は2つの船溜りを幅10mの堀割でつないだもので、2つの船溜りを三味線の胴と海老尾(えびお=三味線の頭の所)に見立て、堀割を 桿と見て粋に『三味線堀』と呼んだのだそうです。ここまで米などを積んできた船が、帰りには屎尿を引き取っていたそうで、晩年はおわい船ばかりだった、という古老の証言が印象的です。
この、台東区小島1-5にある建造物は、三味線の胴にあたる船溜りの方です。

P327038三味線堀市場協同組合

文字がかすれて読みづらいですが、ここが『三味線堀』であった証として、この建造物の一隅に「三味線堀市場協同組合」の表示が残っています。

『三味線堀』から先は『鳥越川』となります。『鳥越川』の紹介は次回に譲るとして、『忍川』に話しを戻しましょう。

前掲の「三橋」の錦絵の水路部分に注目していただきたいのですが、石垣状の細かい石組みが施してあることが絵からわかりますでしょうか。
実際の水路が地中に埋設されているそうで、その水路の貴重な写真が台東区のホームページ(・・・クリック!)に掲載されています。何気なく中央通りを利用しておりましたが、足元にこのような遺構が眠っているとは思いもしませんでした。

この「三橋」からほど近い上野のお山は、ちょうど訪れた時が桜の開花時期と重なったため、大勢の人だかりでした。

P327064うえの桜まつり

P330008上野桜

とにかく大勢の花見客がいらして、花を楽しむ余裕もないくらい人酔いしそうな人波にあおられて、いつもだったら上野界隈の立ち呑み屋をだらだらとはしごしているのですが、ちょっとだけ寄ってそうそうに帰還することとしました。上野は、人だかりができるような時期ははずして訪問しよう、と固く誓ったものです。

 ※谷田川・藍染川・忍川・鳥越川流路地図・・・クリックしてご覧下さい。

注)拙ブログにて紹介しております流路地図は、拙ブログに記載している内容をご理解いただくための補助資料として用意しております。第三者に提供したり、共有したりすることを想定して制作しておりません。私的な探究心の備忘録としてご覧願えれば幸いです。

本文中にてご紹介する人物(キャラ等も含む)は、原則として、敬称を略すことで統一しております。しかし、ちゃらんぽらんな性格故、この原則は必然的になし崩しとなる可能性が高いものとご認識下さい。
敬称を略すことに深い理由はありません。略さないのであれば、できる限り公平性を保ちたいので、全員に何らかの敬称を考えねばならないことが負担になりそうな気がしただけです。基本、めんどくさがりなのです。
あしからずお許し願います。

Posted on 2016/04/13 Wed. 00:00 [edit]

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