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古隅田川:古隅田川(東京)と支流    -諸般の事情には大人の対応を- 

諸般:いろいろの事柄。さまざま。種々。「―の事情を考慮する」・・・goo辞書より抜粋



前回に引き続き、古隅田川の流路を追いかけます。

大六天排水場から水戸橋近辺で、古隅田川は現在の綾瀬川の河道内を逆に北上し、

PC06091綾瀬川・首都高三郷線

裏門堰排水場から東京拘置所の敷地を取り巻く裏門堰親水水路を進みます。

東京拘置所

小菅御殿裏門堰親水路

途中で五反野親水緑道の流れが合流し、東京拘置所の敷地に沿って南下します。

小菅五丹野親水緑道②

東京拘置所の周辺は、おそらく堀や水路がめぐらしてあったものと思われ、その堀跡と思われる場所に銭座橋(ぜんざばし)の親柱がひっそりと残されています。

PC19017銭座橋

古隅田川の流れは、荒川放水路内で曲がり、小菅水再生センターでS字を描いて、荒川放水路の対岸に渡ります。

PC19022小菅水再生センター②

足立区柳原地区で大きく弧を描き、再び荒川放水路に向かう流れと現在の隅田川に向かう流れとに分岐します。

足立柳原MAP

PC19046分岐点

現在の隅田川に進んだ流れは、東武線・京成線をくぐって足立郵便局の脇を通って合流します。

PC19048分岐後流路

荒川放水路に進んだ流れは、東武線の鉄橋や京成線をくぐり、荒川放水路部分に至ると弧を描いて

PC19044東武線鉄橋下流側から

PC19043祠と京成線

現在の隅田川に向かって流れていきます。

埼玉編でも梅若伝説を採り上げましたので、東京編においてもご紹介しますが、現隅田川との合流部付近には東京の梅若塚、木母寺(もくぼじ)があります。

PC19031木母寺

梅若伝説の梅若丸の母、花御前が出家して妙亀尼として草堂を営んだ「梅若塚」のあとに創建されたのが、梅若寺と呼ばれ、これが現在の木母寺なのだそうです。正確には、数百メートル程度移動しているようですが。
1607年(慶長12年)寛永の三筆のひとり、関白近衛信尹が参拝した時に梅の字を「木」と「母」に分解して、木母寺と改名したと伝えられています。「ノ」と「-」はどこにいってしまったのでしょうか。誰も突っ込まなかったのでしょうかね。大人ばかりですばらしい対応です。

現在の隅田川に古隅田川が注ぐ地あたりは「水神の森」と呼ばれ、入江状の湾曲が江戸の切絵図に掲載されています。
「水神の森」は隅田川と入間川との合流地点に集められた土砂の堆積によってできたちょっとした陸地だった模様です。

隅田川水神の森真崎:広重

この水神の森には、現在の隅田川神社の位置とは若干異なるようですが、水神を祀る隅田川神社が鎮座していました。

PC19036隅田川神社②

戦後の開発によって水神の森は開発されてしまいましたが、昔は、水神の森が目印となって、川を上る人にはもうすぐ難所である鐘ヶ淵があることがわかり、下る人には海が近いことを知ることができたのだそうです。
鐘ヶ淵は入間川と古隅田川(綾瀬川)が合流することもあり、昔の舟人からは航路の難所として恐れられ、とくにその名が高くなったところです。鐘ヶ淵の地名は、川がこの辺で直角に曲り、これが大工の使う指矩(さしがね)に似ていることから名付けられたと言われています。

鐘ヶ淵MAP

水神の森近辺には入江があったので“江の口”と呼ばれており、これが「江戸」の語源だといわれています。

現在の隅田川は、東京都北区の新岩淵水門で荒川から分岐して東京湾に注ぐ、全長23.5kmの一級河川です。

PC19039隅田川

これは、もともと入間川の下流であって、荒川西遷によって入間川の河道に移された荒川の流れであったものを、荒川放水路を設け、荒川放水路を荒川と呼称するようになったため、区別して隅田川と呼ぶようになった訳です。本来であれば、上記の水神の森より下流側が隅田川であった訳ですから、旧名に戻した、といえば聞こえはいいですが、ちょっと欲張って、どさくさ紛れで上流側も隅田川にしてしまったようです。
これは、既成事実を積み重ねたというか、拡大解釈というか、用意周到というか、言葉を選んで表現しようと思ってもなかなか困ってしまいますね。

ちなみに、水神の森真崎の浮世絵に描かれている山は筑波山です。筑波山が描かれている浮世絵も少なくないのでしょうが、方角はややおかしい感じがします。まあ、こちらも大人の都合ってことでしょうね。絵柄というか構図というのか、こちらもどさくさ紛れな感じがしますが、突っ込んではいけないことなのでしょう。諸般の事情ということで、大人の対応を心掛けることといたします。

 ※古隅田川(東京)地図・・・クリックしてご覧下さい。

注)拙ブログにて紹介しております流路地図は、拙ブログに記載している内容をご理解いただくための補助資料として用意しております。第三者に提供したり、共有したりすることを想定して制作しておりません。私的な探究心の備忘録としてご覧願えれば幸いです。

本文中にてご紹介する人物(キャラ等も含む)は、原則として、敬称を略すことで統一しております。しかし、ちゃらんぽらんな性格故、この原則は必然的になし崩しとなる可能性が高いものとご認識下さい。
敬称を略すことに深い理由はありません。略さないのであれば、できる限り公平性を保ちたいので、全員に何らかの敬称を考えねばならないことが負担になりそうな気がしただけです。基本、めんどくさがりなのです。
あしからずお許し願います。


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Posted on 2015/01/14 Wed. 00:00 [edit]

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古隅田川:古隅田川(東京)と支流    -節操のなさは褒め言葉- 

節操:節義を堅く守って変えないこと。自分の信じる主義・主張などを守りとおすこと。みさお。「―を貫く」「―がない」・・・goo辞書より抜粋



  
東京の古隅田川は、東京都足立区・葛飾区の境を流れる流路延長5.45kmの河川です。葛飾区小菅3丁目で綾瀬川左岸に合流しています。現在、流れは一部暗渠化されています。東京拘置所付近、綾瀬川の開削で分断された旧流路跡には開渠部分があり、裏門堰親水水路と呼ばれています。また、荒川放水路によって分断された川跡が千住(足立区柳原)側にも存在します。暗渠だけでなく、開渠部分もあり、変化に富んだ流れが堪能できます。
かつて古隅田川に架けられていた橋跡には、このようなモニュメントが飾られています。かつての河道と橋の姿を想像しながら歩くことも楽しいことだと思います。

PC06028北三谷二号橋

PC06038北三谷三号橋

前々回にテーマとした、埼玉を流れている古隅田川の下流部分は、現在の中川に河道を呑み込まれてしまっています。その後、隅田川として(正確には古隅田川として、でしょうか)姿を現すのは中川橋の北側あたりで、現在は暗渠となっています。

PC06001中川寸前

葛飾区と足立区の区境に沿って流れていきます。
マンションの中を抜け、

PC06005マンション内の区境

亀有のアリオをかすめ、亀有駅の北側をJR常磐線とほぼ平行に進んでいきます。流路はタイル貼りの遊歩道として整備されています。

PC06010亀有アリオ

亀有は、かつて「亀成(かめなし)」と呼ばれていたところで、葦の生える低湿地帯の中に「亀」の甲羅の形を「成す」土地のようであったために名付けられたといわれています。この地名は、「無し」に通じて縁起が悪いとされ、江戸時代初期(1644年頃)に正保国絵図を作成するための報告書提出の際、「亀有」に改められたのだそうです。
亀有といえば、やっぱり両さんですね。

両津勘吉像

その後、古隅田川は葛西用水路(曳舟川)と交差します。
正確にいうと、写真撮影地点より下流(南側)が曳舟川、その上流は葛西用水路ですね。

PC06022葛西用水親水水路

「曳舟」とは、舟に人や荷物を乗せて岸から曳いた交通手段をいいます。江戸市中から下総、水戸方面へ行く、多くの旅人に利用されていたそうです。
現在、曳舟川は埋め立てられてしまい、曳舟川親水公園になっています。

四ツ木通用水曳舟(名所江戸百景)

西亀有の高木神社の北側から開渠が途切れ途切れに出現し、JR常磐線の線路際まで来た後、東京都立葛飾ろう学校を迂回するように進み、線路を渡ります。

PC06064常磐線ガード下

線路を渡った先で再び開渠となり、小菅三丁目交差点付近まで南下し、大きく弧を描きながら北上していきます。現在は捷水路(しょうすいろ)が設けられています。鴨が仲良く泳いでおりました。

PC06080カモ

捷水路とは、河川の屈曲部で水流が円滑に流下せず滞留しがちとなるため、屈曲部を短絡し、なるべく直線的になるよう設けられた新河道をいいます。
古隅田川の本来の流れは、綾瀬駅の北側イトーヨーカドー綾瀬店のあたりでUターンして南に進んでいました。

PC19001綾瀬IY

綾瀬駅のそばの駐輪場が古隅田川だったところで、ここには橋跡があり、かろうじて親柱がいくつか現存しています。
ちょっとした有効活用ですが、あまり違和感がありませんね。

PC19003常盤橋②

PC19004千鳥橋

綾瀬駅より南下した流れは、レンゴーの葛飾工場の北側で前述の捷水路以前より始まる開渠と合流して、小菅交番交差点付近を通り、.

PC06083レンゴー

大六天配水場の先で、綾瀬川に呑み込まれていきます。

PC06090大六天排水場

「大六天」は、天魔(てんま)イコール第六天魔王波旬(はじゅん=悪魔)、すなわち仏道修行を妨げている魔のことである、とされています。天子魔(てんしま)・他化自在天(たけじざいてん)・第六天魔王(あるいは単に魔王)ともいわれています。この第六天(=大六天)を祀っていた葛飾区西亀有の高木神社(旧称:第六天社)から命名されたのではないかと思います。

PC06052高木神社

某ゲームの影響で、第六天魔王というとどうも織田信長をイメージしてしまいますが、織田信長とは縁もゆかりもないようです。
日本は八百万の神々の国ですから、いろいろな神様がいらっしゃるのでしょうが、修行の妨げとなる悪魔であっても祀ってしまう節操のなさというのか、懐の深さというのか、この分け隔てのなさがとても素敵です。ですが、現在の高木神社は、第六天を祀ってはいないようでちょっと残念ですね。

 ※古隅田川(東京)地図・・・クリックしてご覧下さい。

注)拙ブログにて紹介しております流路地図は、拙ブログに記載している内容をご理解いただくための補助資料として用意しております。第三者に提供したり、共有したりすることを想定して制作しておりません。私的な探究心の備忘録としてご覧願えれば幸いです。

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Posted on 2015/01/07 Wed. 00:00 [edit]

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古隅田川:荒川放水路    -庶民の味方「せんべろ」- 

庶民:世間一般の人々。特別な地位・財産などのない普通の人々。「―の文化」「―の暮らし」・・・goo辞書より抜粋



東京を流れる古隅田川を紹介する前に、ちょっと寄り道させていただきます。お付き合いのほど、よろしくお願いいたします。

東京都の東側には、隅田川、荒川、中川、江戸川などの大河川が集中しています。これは、利根川東遷・荒川西遷によるものです。利根川東遷については、拙ブログ『利根川東遷・・・クリック』をご参照願えればと存じます。

東京地図

江戸時代より延々と治水や防衛、農産業、運輸といったインフラを整えるために行われた、関東平野の主要河川の整備の結果が今日の川の状況です。そして、この河川の整備によって、古隅田川が埼玉県と東京都に取り残されたかのような状況になってしまっています。

上掲の地図の中では、荒川が最も川幅が広く、他を圧しているといっても過言ではありません。この荒川の下流部は、人工の巨大な水路なのです。1965年(昭和40年)までは『荒川放水路』と呼ばれておりました。以下、現在の荒川のうち『荒川放水路』部分は、『荒川放水路』と記載致します。

PC19041荒川放水路②

『荒川放水路』が誕生する直接のきっかけは、1910年(明治43年)の『東京大水害・・・クリック』によります。千住、本所、亀戸、浅草などの荒川下流域は、もれなく水浸しとなってしまいました。水は2週間近くの間引かず、500名近い死者、行方不明者を出しています。

翌1911年(明治44年)、荒川の氾濫防止策として『荒川放水路』の建設が決定します。いくつかの流路案が検討された中で、内務省は抜本的な洪水対策を意図し、当時の埼玉県岩淵町の官鉄東北本線の橋梁から中川河口に至る約22kmを開削することとしました。

『荒川放水路』の開削は、日本人として唯一パナマ運河の建設にあたった青山士(あおやまあきら)が工事の指揮にあたりました。
青山は清廉潔白な人だったようで、荒川と隅田川の分岐点、岩淵水門のそばにある『荒川放水路』の記念碑には「此ノ工事ノ完成ニアタリ 多大ナル犠牲ト労役トヲ払ヒタル 我等ノ仲間ヲ記憶セン為ニ 神武天皇紀元二千五百八十年 荒川改修工事ニ従ヘル者ニ依テ」と記されており、指揮にあたった青山の名前はどこにも刻まれていません。また、 太平洋戦争中、パナマ運河への攻撃を立案していた海軍から、パナマ運河に関する情報提供を求められたところ、土木技術者の良心に基づいてこれを拒否したと伝えられています。

荒川放水路完成記念碑

工事の着工は1913年(大正2年)で、途中に関東大震災があったことにもよるのかもしれませんが、完工は1930年(昭和5年)と17年間を費やし、当初予定の倍という工期になっています。ちなみに、工費は当初予定の約3倍の3,100万円超という莫大な金額となりました。
買収面積は1,100町歩(東京ディズニーランドの約20個分)に達し、埼玉県2町村、東京府17町村、立退き家屋は1,300戸にのぼっています。

岩淵町から隅田村までの川幅は250間(約455m)、その下流では徐々に幅員を拡大し、河口部は320間(約582m)となりました。その川幅の中央に、水路を設け、幅は60間(約109m)から140間(約255m)で開削することと決められました。
実は、両岸の堤防の高さは同じなのですが、天幅は右岸が8間(約15m)であったのに対し、左岸は6間(約11m)しかなかったそうです。この堤防の規格は住民には秘密にされていました。そのためか、都心部を守るために堤防の高さが異なっている、と噂が飛び交ったそうです。

この開削によって、古隅田川の流路も寸断あるいは『荒川放水路』に呑み込まれてしまいます。次回以降、東京の古隅田川を紹介する予定ですが、事前知識として、利根川東遷だけでなく、『荒川放水路』の開削にも影響を受けていることを知っておいていただくと、よりご理解が進むものと思います。

また、河川だけでなく、流域の南葛飾郡大木村、平井村、小松川村、船堀村の4村は事実上廃村に追い込まれています。4村の廃止はいずれも同じで、1914年(大正3年)4月1日でした。

鉄道も影響を受け、『荒川放水路』によって軌道を変更したりしています。
例えば、東武スカイツリー線の鐘ヶ淵~牛田間は、現在は『荒川放水路』の堤防脇を直線的に走っていますが、かつての軌道は、放水路の中央付近まで張り出して大きな弧を描いていました。

東武線新軌道

東武線旧軌道

途中駅となる堀切駅は、牛田駅から程近く、堤防脇の急カーブ上に位置しているため、ホームに停車する車両は傾いて停まらざるを得なくなり、ホームと車両との間にできる隙間は、落ちるのではないかと怖くなるほどです。

PC19024堀切駅

また、東武線の堀切駅と京成本線の堀切菖蒲園駅は、『荒川放水路』を挟んでそれぞれ反対に位置するようになってしまいました。
他にも『荒川放水路』によって影響を受けた交通機関や道路はあることと思いますが、現状だけを知っている方からすれば、人工の巨大水路であることや、その水面の下に家や村があったことなど、はなから知らされていないか、知っていても忘れられていくものなのでしょう。
そして、現状に合わせた駅や橋が生まれ、またそういうインフラ類に応じた暮らしが普通となっていくのでしょう。
次回以降、新年には、『荒川放水路』によって分けられてしまった古隅田川の流れをご紹介致します。

とりあえず、庶民的には、せんべろの聖地「四ツ木駅」が、場所は変わってしまっても存在していることを素直に喜びたいものです。呑兵衛としては実に喜ばしい限りなのです。そして、これからもお父さんたちのクダを巻く場として、あり続けてくれればと、願うばかりです。千円でべろべろ! 何と素晴らしいことなのでしょう。


さてさて、本年は何とか週一ペースを維持して当ブログを展開することができ、正直ちょっとホッとしております。付き合っていただいた皆さんからすれば駄文を週一で読まされるわけなので、ツラい一年だったかもしれませんが、そのおかげで何とかここまで続けられました。お引き立ていただき、感謝の言葉もありません。
本年同様来年もいい年でありますことを願っております。良い年をお迎え下さい。


 ※古隅田川(東京)地図・・・クリックしてご覧下さい。

注)拙ブログにて紹介しております流路地図は、拙ブログに記載している内容をご理解いただくための補助資料として用意しております。第三者に提供したり、共有したりすることを想定して制作しておりません。私的な探究心の備忘録としてご覧願えれば幸いです。

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Posted on 2014/12/31 Wed. 00:00 [edit]

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古隅田川:古隅田川(埼玉)と支流    -悲哀の舞台となったかつての大河- 

悲哀:悲しくあわれなこと。「人生の―を感じる」「サラリーマンの―が漂う」・・・goo辞書より抜粋



埼玉県内の古隅田川は、埼玉県さいたま市・春日部市を流れる流路延長4.8kmの一級河川です。

PB21052合流部手前

かつては隅田川(古隅田川)が本流で古利根川は支流でしたが、現在は逆転して利根川水系の大落古利根川(おおおとしふるとねがわ)の支流となっています。
さいたま市岩槻区と春日部市の境界を北東方向へ流下し、途中旧古隅田川・上豊川や上院落(じょういんおとし)などの支流と合わさり、春日部市梅田地区で大落古利根川右岸に合流しています。もともとは、大落古利根川から元荒川の側へ流れていましたが、今では逆川となっています。

さいたま市岩槻区南平野地区に、古隅田川の管理起点があります。古隅田川と直行する上流部は、山城堀と呼ばれている農業用水路です。
現在、古隅田川の源流はこの山城堀となっており、管理起点部分から古隅田川に変更されている、という意味合いだと思われます。

PB21001管理起点① PB21003管理起点③

実際、この管理起点から、後述の旧古隅田川(古隅田川だの旧古隅田川だのまぎらわしいですネ)と合流するまでの古隅田川の流路は、山城堀の流路だと思われます。

この管理起点からやや南方向より、開渠が始まる旧古隅田川は、古隅田川のさらに古い流路です。「ふれあいプラザいわつき」を挟んで北側に古隅田川の管理起点が位置し、

PB21017さいたまふれあいプラザいわつき

南側に旧古隅田川の開渠部の始まりが存在しています。

PB21018旧古隅田川上流開渠部①

埼玉県内の古隅田川や旧古隅田川、上豊川などは、開渠での流れが現存しているため流路を特定しやすいですし、暗渠化も比較的近年であるため、航空写真などで流路が判明している分、暗渠部も多少は追いやすい方なのかもしれません。

古隅田川航空写真(S39)

上掲の写真は、1964年(昭和39年)の東岩槻駅周辺のものです。農業用水や古隅田川などの流れが、複雑に入り組んでいることがお分かりいただけるものと思います。まだ、農耕地が多く、開発の手はあまり伸びていないようです。
現在は、東岩槻駅周辺の開発が進み、上の航空写真のような開渠はなくなっています。また、その痕跡をかき消すかのように区画整理がなされているため、道路状況から流路を特定していくことは難しい状況です。

源流部MAP

古隅田川の源流となっている山城堀は、蓮田市の黒浜沼方面から流れ出し、古隅田川の管理起点に到達していたようです。

PB21008山城堀

現在は、黒浜沼からの排水は、すべて隼人堀川という別水路から大落古利根川に流れているそうです。

古隅田川は、管理起点よりもさらに先は暗渠となっており、右に折れて山城堀に合流し、元荒川に注いでいたようです。

PB21010管理起点上流部⑤

古隅田川管理起点のそばからは、南に向かって旧古隅田川・上豊川が流れていきます。

PB21014上豊川上流部

上豊川は、元荒川より分岐して古隅田川の流れと同じ流路を辿った後、北へ向かって山城堀の流路を辿り、古隅田川と再度流路を同じにしているようです。
旧古隅田川は、古隅田川の管理起点に向かう流れとは別に、元荒川上流部へとつながる流れも存在しています。現在は暗渠となって「ふれあいプラザいわつき」の隣を流れています。

PB21016旧古隅田川上流暗渠部

おそらくですが、上掲の航空写真の流路と異なる暗渠の流路なため、暗渠化の際に流路の変更がなされているものと推測します。
また、東武野田線(アーバンパークライン)を越えてからの流路は、正直なところ区画整理によって正確なことが分からず、推測の域を出ないものです。とんでもない間違いで後日訂正させていただくかもしれません。その際は、あしからずお許しください。

旧古隅田川は、春日部市南中曽根あたりで上豊川を左岸に合流させ、

PB21033上豊川合流部

その先で古隅田川の右岸に合流します。

PB21037旧古隅田川合流部

合流後の右岸には、古隅田川の自然堤防を活用した古隅田公園があります。

PB21031古隅田公園

公園の一角には、埼玉県で最も古いといわれる石橋の「やじま橋」が移築・展示されています。

PB21040やじま橋②

その後、春日部市立宮川小学校の付近で左岸に上院落(上院川)を迎え、さらに先の左岸で黒沼方面からの用・排水路を合流させます。

PB21043上院落合流部 上院落


黒沼水田排水路(仮)

黒沼はさいたま市岩槻区表慈恩寺地区北部の田園地帯です。この田園地帯の灌漑用水を供給するために開削された見沼代用水路の支線用水路が黒沼用水で、黒沼に差し掛かると北側を流れる内牧用水と南側を流れる豊春用水とに分かれます。また、黒沼の中央を流れる排水路(黒沼水田排水路と仮称)が存在します。この3本の流れが1つにまとまって古隅田川に注ぎ込んでいます。

古隅田川の流れはその後、国道16号線と東武スカイツリーラインをくぐって、大落古利根川右岸に合流します。

PB21051大落古利根川合流部②

古隅田川は、住宅地を流れる河川であるため、周辺の生活排水などが流入してしまい、清流とは言い難い流れです。また、古隅田川が造った自然堤防を活用している古隅田公園と現在の古隅田川の間には住宅が立ち並んでおり、往時の規模と現在の細流とでは比較のしようもないほど差があることがわかります。
かつて、隅田川だけでなく、利根川や荒川、綾瀬川といった氾濫を起こす河川が網の目のようにあったこの地は、今でも水害の危険が懸念されており、上院落のそばに上院調整池を設けて、地域を水害から守ろうとしています。

今の古隅田川の流れは、武蔵国安達郡と下総国葛飾郡を分かち、関東の平野部を築いた当時を想像することが困難なほど水質も水量も減っており、かつての向きとは逆になってしまうような頼りない小河川ですが、この小河川が大河だった時代の物語として、謡曲の「隅田川」があります。

京都の北、白河に住んでいた吉田某の妻は、その子梅若丸を人買いにさらわれ、悲しみ嘆いたあまりに狂気となって我が子の行方を尋ね歩くうちに、遂に武蔵国隅田川のほとりに辿り着きます。
狂女となった彼女を、船頭はなかなか船に乗せようとしません。すると狂女は業平の古歌を思い出し、業平は妻を、今の自分は我が子を尋ねているが、その思いは同じだと嘆きます。船頭は哀れになり狂女を船に乗せ、川向うの大念仏は、一年前人商人に連れられてきた子供が病死したのを人々が不憫に思い回向しているのだと語ります。その子こそ尋ねる我が子の梅若丸と分かり、狂女は泣き伏します。船頭に助けられて岸に上り、念仏を唱えていると、わが子の声が聞こえ、その姿がまぼろしのように現れますが、そのまぼろしは夜明けと共に消え失せ、あとには草の生い茂った塚があるだけでした。


謡曲「隅田川」

謡曲「隅田川」の中で在原業平の歌が出てきますが、旧古隅田川に架かる県道2号線の橋が「業平橋」といいます。

PB21025業平橋① PB21026業平橋②


また、古隅田川の右岸に位置する春日部市新方袋の満蔵寺には梅若塚があります。

PB21048梅若塚案内 PB21049梅若塚

梅若塚は、墨田区堤通2丁目にある木母寺(もくぼじ)の方が有名かもしれません。まあ、どちらでもいいんですが、武蔵国の隅田川が舞台であることは確かなので、現在の東京でも埼玉でも当てはまってしまいます。どちらが本当の塚なのかわかりませんが、両方本物とは考えにくいので、少なくともどちらかは偽物なのでしょう。真偽の判定は、ここでは控えさせていただきます。

河川規模の縮小や水質の悪化、かつての支流である利根川水系に組み入れられてしまい、昔の流れとは逆向きに変化してしまったり、梅若伝説という悲話の舞台であったりと、古隅田川は何となく物哀しい感じがしてしまいます。

 ※古隅田川(埼玉)地図・・・クリックしてご覧下さい。

注)拙ブログにて紹介しております流路地図は、拙ブログに記載している内容をご理解いただくための補助資料として用意しております。第三者に提供したり、共有したりすることを想定して制作しておりません。私的な探究心の備忘録としてご覧願えれば幸いです。

本文中にてご紹介する人物(キャラ等も含む)は、原則として、敬称を略すことで統一しております。しかし、ちゃらんぽらんな性格故、この原則は必然的になし崩しとなる可能性が高いものとご認識下さい。
敬称を略すことに深い理由はありません。略さないのであれば、できる限り公平性を保ちたいので、全員に何らかの敬称を考えねばならないことが負担になりそうな気がしただけです。基本、めんどくさがりなのです。
あしからずお許し願います。

Posted on 2014/12/17 Wed. 00:00 [edit]

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古隅田川:利根川東遷    -国境だったかつての雄姿- 

雄姿:雄々しく堂々とした姿。雄壮な姿。・・・goo辞書より抜粋



今回より、古隅田川(ふるすみだがわ)と呼ばれている流れを採り上げていきます。
以前、「東京の逆川(さかさがわ)と埼玉の逆川」という企画を掲載しましたが、古隅田川についても、埼玉の流れと東京の流れの両方をご案内申し上げたいと考えています。

埼玉の流れであるとか、東京の流れなどと区分してしまうと、同一の名称の別河川がそれぞれあるかのような誤解を与えてしまいかねないのですが、もともと埼玉の流れも東京の流れも、どちらも同じかつての隅田川です。その流路は劇的な変遷を経て今に至っているといっても過言ではありません。
今回は、古隅田川の現状をご案内する前に、劇的な変遷をどのように経たのかという、アカデミックなお話しをさせていただきます。

とはいっても、ご興味のない方や地理がよくわからない方にとっては、河川の流路の変遷など面白くもないものだと思います。ここから先は、読みたい方のみ、お目を通していただければと思います。面倒だなと思う方は、赤文字の『※ここから先をお読み下さい。』まで省略して読み飛ばして下さい。


近世以前は隅田川(または角田川)と呼ばれ、利根川の主流であり、隅田川の右岸が埼玉郡(武蔵国)、左岸が葛飾郡(下総国)だった時代がありました。つまり、隅田川は国境を規定するほどの大河だったのです。

その流路は春日部市梅田付近までは、現在の古利根川(大落古利根川:おおおとしふるとねがわ)だったのですが、梅田で南西へと流れを変え、(隅田川が幹線で、古利根川は隅田川の派川)、さいたま市岩槻区長宮へ向かって流れていました。長宮では荒川(現在の元荒川)を右岸に合流し、その後は元荒川の流路を辿り、越谷市中島付近で古利根川(現在の中川)の流路となり、最後は現在の隅田川に繋がっていきます。

このように、複雑な変遷になってしまった背景である、『利根川の東遷』についてご説明申し上げなくてはならないでしょう。なお、ほぼ同時期に行われました『荒川の西遷』に関しましては、以前の拙ブログ『荒川の西遷・・・クリック』をご参照願えればと存じます。

とりあえずウィキによると、
中世末まで利根川と渡良瀬川は江戸の内海(現東京湾)に注ぐ二筋の大河をなしていた。利根川は上野国と武蔵国の両国の国境の南で乱流し、綾瀬川や荒川と合・分流しながら江戸の内海へ注ぎ、渡良瀬川は下流を太日川(ふといがわ;ほぼ現在の江戸川)とし同じく江戸の内海へ注いでいた。なお、利根川と渡良瀬川を別個の川とする考えがある一方で、合の川を経て利根川から渡良瀬川の流れも存在し、全く別個ではなかったとみる考えもある。

①江戸時代以前の関東の河川

近世の初めにこれらの河川の河道を付け替える大工事が始まった。そして、元和7年(1621年)利根川の中流を渡良瀬川に河道を付け替えた。これにより太日川が新たに利根川の下流となり、渡良瀬川はそれまでの下流を失い利根川の支流となった。

③新川通と赤堀川

それまでの利根川の下流は、上流と中流から切り離された形となり古利根川と呼ばれ、その河口は中川と呼ばれることになった。

⑥赤堀川開削その2

この利根川を承応3年(1654年)に分水嶺を開削する工事を行い、香取海に通じる河道を開いた。このため、江戸時代から大正時代までは、利根川の下流は、権現堂川から江戸川を経て江戸の内海へ至る流路と、赤堀川から常陸川を経て香取海へ至る流路が存在し、二つの流路は逆川を介して関宿でもつながっていた。そして次第に香取海への流路の方に比重が移り、昭和3年(1928年)に権現堂川が廃され、赤堀川・常陸川の流路のみ残り、江戸川はその支流となった。

とあります。

⑦利根川東遷


※ここから先をお読み下さい。

江戸時代、徳川幕府は、人口が集中する首都江戸の食糧供給のための生産地を現在の埼玉県に設けようとしました。そこには、網の目のように乱れ、降雨などによって流路が変貌してしまうかつての利根川や荒川、またその派川があったため、流れを整理し、荒川の流れを西側に、利根川の流れを東側に移して、中央部を農耕にふさわしい土地に整備しました。これを『利根川の東遷・荒川の西遷』と呼びます。
この整備により、隅田川は古利根川(大落古利根川:おおおとしふるとねがわ)や中川などにくっつけられてしまい、かつての純粋な隅田川の流れは、埼玉県と東京都にかろうじてほんの少しだけ残る状況となってしまったのです。この、ほんの少しだけ残った元祖隅田川?を『古隅田川(ふるすみだがわ)』と呼んでおります。

PB21038古隅田川と黄葉

利根川の東遷・荒川の西遷により、実質的な水源を失った古利根川と元荒川の水量は急激に低下したようです。
両者をつなぐ状況となってしまった古隅田川も同様に流れが細くなってしまい、土砂の堆積などによって川幅はどんどん狭くなっていったのでしょう。
水量が減った河川では、土砂の掃流力と運搬力は低下し、相対的に堆積量は増加する傾向にあります。新編武蔵風土記稿の埼玉郡梅田村の巻によれば、文化年間(1810年頃)には、古利根川の川幅は25間(45m)、古隅田川の川幅は6間(10.8m)となっています。もともとは、古隅田川こそが国の境界である大河であったものなのですが、この当時からすっかり古利根川に逆転されてしまっています。

利根川西遷の結果、平坦地を流れるため傾きがとても緩くなっている古隅田川の河床勾配によって、古隅田川は現在のさいたま市岩槻区長宮から北東へと逆流を始め、春日部市梅田へ向かって流れ出しました。
古利根川、元荒川はともに流頭が締め切られ水源を失った河川ですが、それでも古利根川に比べると元荒川の方が水量は豊富だったと思われます。というのは、元荒川にはそれ以前に元荒川から切り離された綾瀬川の流頭部分の水量が流れ込んでいたからです。

綾瀬川起点

流れが逆転してしまった埼玉の古隅田川は、かつて大河だった当時の面影がなくなり、今では住宅地を流れるドブ川の様相を呈しています。
国の境をなしていた当時の雄姿は想像しづらい現状ですが、次回以降でその流れがどのようになっているのかを追ってみましょう。

 ※古隅田川(埼玉)古隅田川(東京)地図・・・クリックしてご覧下さい。

注)拙ブログにて紹介しております流路地図は、拙ブログに記載している内容をご理解いただくための補助資料として用意しております。第三者に提供したり、共有したりすることを想定して制作しておりません。私的な探究心の備忘録としてご覧願えれば幸いです。

本文中にてご紹介する人物(キャラ等も含む)は、原則として、敬称を略すことで統一しております。しかし、ちゃらんぽらんな性格故、この原則は必然的になし崩しとなる可能性が高いものとご認識下さい。
敬称を略すことに深い理由はありません。略さないのであれば、できる限り公平性を保ちたいので、全員に何らかの敬称を考えねばならないことが負担になりそうな気がしただけです。基本、めんどくさがりなのです。
あしからずお許し願います。


Posted on 2014/12/10 Wed. 00:00 [edit]

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