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箱崎川番外編    -赤穂義士、凱旋パレードの足跡その2- 

凱旋:《「凱」は戦勝のときに奏する音楽、「旋」は帰る意》戦いに勝って帰ること。凱陣。凱帰。「故国に凱旋する」・・・・goo辞書より抜粋




昨年末、『箱崎川』を辿る際に話題にしました江戸時代の“永代橋”。現在の場所よりも上流の箱崎町に架かっておりました。その“永代橋”を有名にした出来事として、赤穂義士による凱旋パレードを紹介致しました。
これで済めば簡単だったのですが、「またちゃんと調べもしないで、ちょっと見たネット情報でブログ書いてるんだろ!」みたいな友人連の指摘がありまして、核心を突かれて大変悔しいので、「赤穂義士伝」等々に則ってその足跡を辿ることに致します。例によって、予定にない緊急企画故、現地調査などしておりません。ここは《『いもり川』番外編:篤姫の輿入れの調査・報告(・・・クリック!)》同様、毎度どうもスミマセンが、Google先生のお力をお借りすることにして現地写真などを調達してしまいましょう。

さて、元禄15年12月14日深夜=15日未明(1703年1月30日深夜=31日未明)に、赤穂義士は吉良邸に討ち入りを決行しております。

※以降、日付はすべて旧暦で表示致します。どうもグレゴリオ暦では新年行事になってしまって締まりません。

前回の記事(=前置き)が長くて、肝心の凱旋パレードに全くふれることができず、大変恐縮です。凱旋パレードの全行程は下記の地図を参照して下さい。

 ※赤穂義士凱旋パレードの足跡(・・・・クリック!)

今回から、凱旋パレードの足跡としてその行程を追っていくことに致します。もちろん独断と偏見に満ち溢れた感情記述を散りばめながら、記事進行させていただきます。

討入MAP1N

討入MAP1


本所の吉良邸は大変な豪邸でして、全体で約2,550坪でした。

吉良邸

吉良邸跡の一角である本所松阪公園です。この公園でおよそ30坪弱ですので80倍以上の規模です。
そのような豪邸を探索することおよそ1時間、その前の戦闘や戦闘回避のための工作時間が30分程度というスピーディな展開で討ち入りを終えた義士一行は、息子が養子に入った上杉家から追手が来ることを想定して、吉良邸裏門より近所の回向院に参集します。

回向院

無事本懐を遂げた暁には、回向院にて追手を待ち伏せし、一戦交えた後に自刃する計画でした。
現在の回向院は両国駅や京葉道路からの出入りに便利なよう、北側に正門を設けていますが、江戸期は両国橋が現在地より下流に架けられており、そこから真っ直ぐ出入りできるよう、西側に正門がありました。
明六ツ(午前6時)、義士一行は回向院の門を叩きますが、寺社法によって開門は明六ツ半(午前7時)と決められていることを楯に開門を拒む回向院。何とかして関わり合いになることを避けようとします。

当時の両国橋東詰は、“両国広小路”という火除地でした。義士一行はこの火除地にて追手を撃つことに方針変更致します。
両国橋を渡ってくるであろう追っ手を撃つのに便利なよう、“半弓”と呼ばれる騎馬への射撃を想定した武器も事前に用意していますので、回向院に入れなかった場合の準備も抜かりない大石内蔵助です。

休憩の地案内

一方、追手のはずの上杉家には、朝の早い豆腐屋が本所から飛んでいって報せています。しかし、喧嘩の類と相手にされず、事の重大さに気づくのは吉良邸に閉じ込められていた家臣が駆けつけてからでした。しかも、義士一行の全容が把握されていなかったため、200人規模の陣容を想定した対策に走ってしまい時間を取られてしまいます。そうこうしているうちに仇討ちの一報は幕府にも届き、老中から追手を出さないよう沙汰が出てしまいます。これは復讐の連鎖を防ぐための裁定でしょうが、初動の遅れがなければ追っ手を差し向けられていたはずですので、義士一行にとってはとてもプラスに作用しています。この上杉家の対応があったので凱旋パレードができるようになった訳ですから...。

さて、両国広小路にて追っ手を待ち受けていた義士一行ですが、追手がちっとも来ないので再び計画の変更に踏み切ることにします。高輪の泉岳寺にある主君浅野内匠頭の墓前に吉良の首級を捧げる覚悟を固めます。
これはとても大きな賭けでして、約三里(おおよそ12km)の移動中に追手がくるであろうことを絶えず想定・対応しなければならない上に、見ようによっては血まみれのテロリスト集団なため、義士一行が街中を進んでいく行為を中止させられてしまう可能性も考えられます。ちょうどこの日(元禄15年12月15日)は大名の登城日にあたるため、大名行列との衝突(あるいはニアミス)は是が非でも避けたいところです。
悩んだでしょうね、大石内蔵助。しかし、ここまで来たら行ってみたくなろうというものです。

義士一行はここから凱旋パレードに移ります。もちろん、一行の心持ちとしては全く凱旋気分など無かったと思いますし、世にいう“引き上げ行程”でもありません。とりあえず記事内では“凱旋パレード”と記しますが、本来は決死の強行軍ともいうべきもので、嫌な感じの脳内汁は未だ出っぱなしという状況だったことでしょう。何しろ、仇討ち後の行為は“死に場所探し”ですから...。

上掲の地図でもお判りの通り、義士一行は慎重に『大川(隅田川)』沿いを進んでいきます。川沿いであれば、川側から襲撃を受ける危険性は低いでしょうから安全性が高まりますし、警戒する方向が川と反対側を中心にすることができます。

義士一行が進む道は、俗に言う「一ツ目通り」ですね。現在の正式名は「万年橋通り」です。
現状では、「三ツ目通り」と「四ツ目通り」はあるのですが、「一ツ目通り」と「二ツ目通り」はそのように呼ばなくなってしまいました。この数字で呼ばれる通りには、その数字に対応する橋が順番に『竪川』に架かっております。義士一行は両国橋広小路を出発し、南に進んで『竪川』の「一之橋」を渡ります。「一之橋」は、江戸期には「一ツ目之橋」と呼ばれておりました。

一之橋

現在では、埋め立てによって『隅田川』と距離ができてしまったこの「一ツ目通り」ですが、江戸期のこの通りの川側は「御舟蔵」だったり「植溜(うえだめ:樹木などの栽培場や緑地。火災時の避難場所)」だったりで、おそらく見晴らしのいい川原だったものと推定されます。
その「植溜」を過ぎると「灰会所」になり、その先に「新大橋」が架かっておりました。現在だと芭蕉記念館の先です。ちょうど「みつまたわかれのふち」のあたりで日本橋中洲埋め立て後の『箱崎川』と『大川(隅田川)』との分岐点のあたりです。現在の「新大橋」よりも下流に架かっておりました。

芭蕉記念館

この「新大橋」ですが、「両国橋」を江戸期には「大橋」と呼んでいた訳でして、首都防衛の観点から架橋に消極的だった幕府が『大川(隅田川)』で公認していた「千住大橋」の次に架橋を許したのが「両国橋(当時は大橋と呼んだ)」だったのです。さらにその「両国橋」の次に架橋を認められたのがこの「新大橋」だったのです。現在の「新大橋」は、架橋以前“安宅の渡し”だった場所ですね。

討入MAP2N

討入MAP2

「万年橋北交差点」から先は右斜め前に進んでおりまして、江戸期の道が無くなってしまいます。

万年橋北交差点

下の写真は義士一行が通過した川沿いの道(現在の「万年橋北交差点」よりも南側)から北を見たものです。道路が左に曲がっていますが、江戸期は真っ直ぐな道でした。

万年橋北交差点そば

真っ直ぐ進んだ方向には「万年橋北交差点」があります。
『小名木川』には「万年橋」が架かっていたのですが、江戸期の「万年橋」は現代のものよりも西側(芭蕉庵史跡展望庭園のあたり)にありました。

芭蕉庵史跡展望庭園

江戸期の「万年橋」は『小名木川』を通る船の邪魔にならぬよう、アーチ状の設計を施した綺麗な橋でした。しかし、怪我人もいる義士一行にしてみると、余分な登り降りを強いられてしまう、嫌な橋に思えたかもしれません。

万年橋浮世絵

「万年橋」を渡ると「佐賀町河岸通り」を義士一行は進んでいきます。当時はまだ「清洲橋」はありません。現在の「清洲橋」東詰には「霊雲院」という寺がありましたが、関東大震災後に東村山市へ移転しています。

佐賀町河岸通り

佐賀町には北から順に「上ノ橋(『仙台堀』に架橋)」、「中ノ橋」、「下ノ橋(油堀)」がありました。現在は、どの運河も『隅田川』との合流部分が埋め立てられており、橋跡がわからなくなっています。

いろいろ紹介したいことが多くて文章が長くなってしまい、読みづらいものになってしまいました。お許し下さい。いよいよ次回は「永代橋」を渡りますのでご期待を...。

 ※竜閑川・浜町川地図・・・クリックしてご覧下さい。

注)拙ブログにて紹介しております流路地図は、拙ブログに記載している内容をご理解いただくための補助資料として用意しております。第三者に提供したり、共有したりすることを想定して制作しておりません。私的な探究心の備忘録としてご覧願えれば幸いです。

本文中にてご紹介する人物(キャラ等も含む)は、原則として、敬称を略すことで統一しております。しかし、ちゃらんぽらんな性格故、この原則は必然的になし崩しとなる可能性が高いものとご認識下さい。
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Posted on 2019/01/16 Wed. 00:00 [edit]

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箱崎川番外編    -赤穂義士、凱旋パレードの足跡その1- 

足跡:1.あしあと。歩いたあと。「諸国に足跡を残す」 2.仕事のうえでの成果。業績。「物理学の発展に大きな足跡を残す」・・・・goo辞書より抜粋




昨年末、『箱崎川』を辿る際に話題にしました江戸時代の“永代橋”。現在の場所よりも上流の箱崎町に架かっておりました。その“永代橋”を有名にした出来事として、赤穂義士による凱旋パレードを紹介致しました。
これで済めば簡単だったのですが、「またちゃんと調べもしないで、ちょっと見たネット情報でブログ書いてるんだろ!」みたいな友人連の指摘がありまして、核心を突かれて大変悔しいので、「赤穂義士伝」等々に則ってその足跡を辿ることに致します。例によって、予定にない緊急企画故、現地調査などしておりません。ここは《『いもり川』番外編:篤姫の輿入れの調査・報告(・・・クリック!)》同様、毎度どうもスミマセンが、Google先生のお力をお借りすることにして現地写真などを調達してしまいましょう。

それから、あくまでも「赤穂義士伝」等々の記載には忠実に従うのですが、その場の状況や登場人物の思考・感情等々は独断と偏見で想像をふんだんに盛り込むことにします。あしからずご容赦下さい。

とりあえず、過去に記した赤穂義士ネタ(・・・クリック!)はこちらです。参考にもなりませんがよろしければご確認下さい。

さて、元禄15年12月14日深夜=15日未明(1703年1月30日深夜=31日未明)に、赤穂義士は吉良邸に討ち入りを決行しております。

※以降、日付はすべて旧暦で表示致します。どうもグレゴリオ暦では新年行事になってしまって締まりません。しかし、昨年のうちにこの記事もUPしておくべきだったですね。自分も詰めが甘いのでしょうが、実際は1月の出来事なのでちょうどタイムリーなはずです。

忠臣蔵:広重

討ち入りの原因となる江戸城松の廊下の刃傷事件が元禄14年3月14日でして、その日のうちに浅野内匠頭長矩は切腹、浅野家はお家取り潰しになってしまいます。
家老であった大石内蔵助良雄は、お家再興を願い出るも受け入れられず、止む無く、主君の仇を討ち汚名をすすぐべく、その機会を伺います。

元禄14年8月19日、高家肝入の職をお役御免となった吉良上野介義央は、江戸城外堀の呉服橋門内から本所に移転を命じられます。吉良は、吉良左兵衞に家督を譲り、左兵衞宅の隠居となって本所に移り住みます。
江戸城に近く、幕府の警護が強い呉服橋門内よりも、当時の新興住宅地?である本所の方が討入りには好都合だったはずです。大石以下、赤穂義士にとってはとてもありがたいことだったはずで、内心ではほくそ笑んでいたことでしょう。一方で、吉良の実子で米沢藩上杉家に養子に入った上杉綱憲の許で隠居されると、現在の法務省のある場所(桜田門近く)ですから、江戸城の眼と鼻の先では仇討ちもしづらくなってしまいます。近い将来、上杉家に引き取られる可能性も否定できないため、悠長に取り組む訳にもいかなくなってしまいました。
慎重な性格というか深謀遠慮故にそのような感情を表に出さない大石内蔵助は、早速、本所の新吉良邸近くに数人の義士達を住まわせ、動向を探らせます。“米屋五兵衛”と称した前原伊助、“小豆屋善兵衛”と称した神崎与五郎、剣術道場を開く堀部安兵衛と杉野十平次、両国橋東詰にて茶人の弟子と称する大高源吾などなどがその任にあたります。

堀部安兵衛

堀部安兵衛は、元禄当時の平安な時代において義士のうちでも実際に人を斬った経験(高田馬場の決闘:仇討ち)があったため、軍事顧問的な立ち位置であったようです。高田馬場の決闘では、敵の切っ先が安兵衛の帯を切り、着物の前がはだけて苦戦したので、吉良邸討入りには帯の芯に鎖を巻かせる、などのアドバイスをしています。

歌舞伎などでは、上掲の堀部安兵衛の衣装のようなダンダラ模様が忠臣蔵の正装であるかのようになっていますが、実際の討ち入りでは火事装束に見える地味な衣装に身を包み、敵味方の区別がつくように目印として白い布を腕に巻いていたそうです。大石内蔵助は、川崎の平間村から討ち入り間近の11月初めに、次のように指示しています。

打込之節衣類は黒き小袖を用可申候、帯之結ひ目ハ右之脇可然候、下帯は前さがりはづれざる様ニ御心得可有之候、もも引き・脚絆・わらし用可申事

討入りの際の衣類は、黒い小袖を着用し、股引・脚絆・わらじといういでたちとすることと指示通達されています。
当時、江戸では、火事が頻繁に起きていました。ですから、夜中あるいは未明に、火事装束の男たちが大勢で町中を徘徊していても怪しまれることはなかっただろうと言われています。また、火事場は戦場のようなものですが、そこで動くための火事装束は大変戦闘に向くものでした。こうしたことから、火事装束(あるいはそれに近いもの)を採ったと考えられています。

赤穂義士の討入りには、実はお手本がありまして、それは寛文12年(1672年)に起きた、市ヶ谷の「浄瑠璃坂の仇討」という事件です。この仇討ちも、夜間、火事装束、40名ほどの徒党という似たような状況です。夜中に火事装束で徒党を組んで歩いていても、「大名火消だ」と言えば疑われなかった、ということです。
「浄瑠璃坂の仇討」は、一応江戸三大仇討ちのひとつでして、宇都宮藩を脱藩した奥平源八が徒党を組み、父の仇である同藩の元藩士奥平隼人を討ったという事件です。
堀部安兵衛(当時は中山安兵衛)は浄瑠璃坂上、鷹匠町近くの納戸町に住み、牛天神下網干坂の堀内道場に通っていましたので、この事件のことをよく知っていて参考にしたようです。

なお、火事装束が基本であることについては、ほぼ異論がないようなのですが、赤穂義士全員が「火事装束で統一されていた」という説と「バラバラで統一されていなかった」という説の両方があるようですので、一応その旨記しておきます。

近所で生活しながら内偵を開始した義士の面々は、吉良が元禄14年12月14日に本所の吉良邸で茶会を開催する情報を入手します。高家の職は辞して隠居しても、かつての伝手などを頼って神出鬼没に立ち回る吉良の動向を謀りかねていた義士たちは、この有力情報に色めき立ったことでしょう。在宅が確実視できるイベントの開催情報を掴むと、12月2日に頼母子講を装って深川八幡前の大茶屋に集まり、討ち入り当日の詳細を決めています。さぞかし有意義な会議となったことでしょう。

元禄15年12月14日、義士は堀部安兵衛と杉野十平次の借宅に分かれて着替えを済ませ、寅の上刻(午前4時頃)にそれぞれの借宅を出発。吉良邸では大石内蔵助率いる表門隊と大石主税率いる裏門隊に分かれ、表門隊は途中で入手した梯子で吉良邸に侵入。裏門隊は大槌で門を打ち破り、吉良邸に侵入していきます。その際、無抵抗であった門番を縛り上げ、義士のうち最高齢76歳の堀部弥兵衛(堀部安兵衛の義父)に見張らせます。抵抗しない者は斬らない、とかねてからの申し合わせがあり、このことが後に大きな意味を持つことになります。

忠臣蔵2:広重

義士たちが侵入し、まずやったことは、屋敷の弓棚にある弓の弦を切り、槍も折って武器を破壊することでした。また、同時に屋敷の三方を囲む長屋の扉を鎹(かすがい)で打ち付け、長屋にいた家来百数十名の出動を阻止します。各長屋の扉には長槍を持った見張りを配しておき、飛び出す者がいれば槍で突かれることになり、身動きができないようにしました。
こうして数的劣勢を排除した浪士たちは、「火事だ!火事だ!」と叫びながら屋敷内に斬り込んでいきます。そして、台所の裏の物置部屋を探したところ、中から吉良の家来が2人斬りかかってきたのでこれを返り討ちにし、中にいた白小袖の老人を間十次郎が槍で突き殺しました。この老人が吉良であろうと思われたのですが、本人を見た者がおりません。結構慎重に計画していたにもかかわらず、意外なところでずさんです。浅野内匠頭が殿中でつけた傷跡ももみ合いの中で判別しづらくなってしまっており、さぞかし途方に暮れたことと思います。しかし、天は義士たちに味方します。無抵抗だった門番を呼び寄せ、吉良本人であるかどうかを確認したところ、この死骸が吉良である旨の確認が無事取れたのです。
そこで、合図の笛を吹き、義士全員を集めました。ここまでわずか2時間程度。 吉良側の死者は15人。負傷者は23人でした。
一方の赤穂浪士側に死者はおらず、負傷者はわずかに2人。原惣右衛門が表門から飛び降りたとき足を滑らせて捻挫し、近松勘六が庭で敵の山吉新八郎と戦っているときに池に落ちて、太ももを強く刺されて重傷を負いました。
吉良側に比べて被害がとても小さかったことに大石内蔵助はさぞかし胸をなでおろしたものと思われます。また、もしかすると吉良の家臣が二桁の死傷者で済んだことにも安堵していたかもしれません。

前置きが大変長くなってしまいまして恐縮です。凱旋パレードの全行程は下記の地図を参照して下さい。

 ※赤穂義士凱旋パレードの足跡(・・・・クリック!)

次回は、凱旋パレードの足跡として、その行程を追っていくことに致します。

 ※竜閑川・浜町川地図・・・クリックしてご覧下さい。

注)拙ブログにて紹介しております流路地図は、拙ブログに記載している内容をご理解いただくための補助資料として用意しております。第三者に提供したり、共有したりすることを想定して制作しておりません。私的な探究心の備忘録としてご覧願えれば幸いです。

本文中にてご紹介する人物(キャラ等も含む)は、原則として、敬称を略すことで統一しております。しかし、ちゃらんぽらんな性格故、この原則は必然的になし崩しとなる可能性が高いものとご認識下さい。

Posted on 2019/01/09 Wed. 00:00 [edit]

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府中用水:六座頭    -堅いコト言ってんじゃね~よ、と言われそうでして- 

かたい:1.《省略》 2.《省略》 3.《省略》 4.《省略》 5.《省略》 6.自由な感じや、やわらかな感じに欠けたようすをいう。
㋐自在な動きができない。融通がきかない。「からだが―・い」「頭が―・い」⇔やわらかい。
㋑(表現などが)いかめしかったり、こわばったりしていて、すなおに人の気持ちに入ってこない。「文章がまだ―・い」「デッサンの線が―・い」
㋒鋭くて、張りつめた感じを与える。「―・く乾いた音」「表情を―・くして事態の推移を見守る」
㋓緊張から、気持ちにゆとりがなくなる。言動がぎくしゃくする。
[補説]漢字の使い分けは「固い」が広く用いられ、「硬い」は物の性質、「堅い」は状態・ようすに用いられることが多い。・・・goo辞書より抜粋




新年挨拶

初夢に見ると縁起がいいとされる《一富士二鷹三茄子》。
その先というのか続きというのか、四番目は“扇”、五番目は“煙草”、六番目は“座頭”という順番です。“座頭”というのは髪の毛を剃った盲目の方でして「毛がない(=怪我ない)」ということで、息災の縁起物とされていました。

座頭市

自分の世代的には、“座頭”といえば勝新太郎主演の大映映画「座頭市」ですね。兇状持ちで盲目の侠客である座頭の市が、諸国を旅しながら驚異的な抜刀術で悪人と対峙する、アクション時代劇でした。仕込み杖の逆手斬りが実にシブく見えたものです。

さてさて、当ブログは河川や用水路といった水の流れを追いつつも好き勝手で読みたくもないウンチクを押し付ける、という体裁をとっております。ですので、一応必要不可欠な要素は水の流れです。
ということで、ナイあたまをヒネってみると、“市”の川といって思いつくものでは、『市川』と地元の方に呼ばれていた『府中用水』くらいしか思いつきません。

『府中用水』は、江戸時代の初期に開削され、『多摩川』の左岸、日野橋の下流等4箇所から取水し、武蔵野台地西部の崖線の湧水を加えて周辺の田畑を潤しながら調布で再び『多摩川』へ戻る、延長約6kmの農業用水です。
農林水産省が日本の農業を支えてきた代表的な用水を選定して、用水によりもたらされる“水・土・里”(みどり)を次世代に伝え、維持する活動である「疏水百選(そすいひゃくせん)」に東京都で唯一選ばれています。

府中用水

食生活の変化とかで国内における米飯の摂取は減少し、田畑の維持の意義を問う必要があるのかもしれませんが、年頭から堅いことを言うのも何だかはばかられます。
歴史も文化も時間の流れによって形成される、川の流れと同様、流動的なものといえます。長い時間をかけて醸成されていくものですから、せっかちに語るべきではないのでしょう。こういうときこそ性急なモノ言いは控えて、おバカな自分をさらけ出して黙っておく方が良さそうです。

どうぞ、本年もよろしくお願いします。

本文中にてご紹介する人物(キャラ等も含む)は、原則として、敬称を略すことで統一しております。しかし、ちゃらんぽらんな性格故、この原則は必然的になし崩しとなる可能性が高いものとご認識下さい。
敬称を略すことに深い理由はありません。略さないのであれば、できる限り公平性を保ちたいので、全員に何らかの敬称を考えねばならないことが負担になりそうな気がしただけです。基本、めんどくさがりなのです。
あしからずお許し願います。

Posted on 2019/01/01 Tue. 00:00 [edit]

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箱崎川    -町の変化と不変な点- 

不変:変わらないこと。また、そのさま。不易。「不変な(の)真理」・・・goo辞書より抜粋




東京都中央区を流れる『箱崎川』とその支川等を辿っております。
『箱崎川』は『大川(隅田川)』の『浜町川』分岐点付近と『日本橋川』の『亀島川』分岐点付近を結ぶ水運に活用された堀です。
後に日本橋中洲を埋め立てたため、日本橋中洲の西北側約400mが延長され、『大川(隅田川)』の“みつまた”付近までとなり、約1kmの流路を形成していました。

前回までは日本橋中洲側の新しい?『箱崎川』でしたが、今回は箱崎町側を流れていたもともとの『箱崎川』を辿ります。
さて、箱崎町ですが、こちらも日本橋中洲同様埋め立てによってできた地です。小さな島があってその島を広げるように埋め立てが進められたようです。天正期に南側を寛永期には北側を埋め立て、南側は武家屋敷、新規の北側は町人用に町家が設けられました。

竜閑川・浜町川・箱崎川MAP

「江戸紀聞」による箱崎町という名前の由来は、『大川(隅田川)』対岸の富岡八幡宮との縁で、同じ八幡宮である筑前国筥崎宮(はこざきぐう)によるという説と、『箱池(あるいは箱崎池)』と呼ばれる池の存在から命名されたという説が載っています。

みつまた側から『箱崎川』を西に進んでいくと、箱崎町の北側にあたる場所に東京シティエアターミナルがあります。

181209DSC_0088.jpg

東京シティエアターミナルは、東京国際空港へのバスターミナルとして1972年(昭和47年)に開業しました。『箱崎川』の埋め立てが前年の1971年(昭和46年)から翌年にかけてですから、埋め立て後すぐに開業しています。
もともとは、一部航空会社限定とはいえ搭乗手続きや出国審査の手続きが可能な施設でしたが、2001年のアメリカ同時多発テロ事件発生直後、アメリカ連邦航空局FAAの通達によって出発空港以外では北米線の搭乗手続きが不可となり、出国手続も搭乗手続が必要なため不可となってしまいました。北米以外の路線ではカウンター業務が継続されましたが、各航空会社や入国管理局のセキュリティが強化されることによって、2002年(平成14年)に出国審査業務が終了し、同年末に日本航空のカウンター業務も廃止され、搭乗手続業務が全て終了・撤退しました。

首都高速道路の箱崎ジャンクションを挟んで、東京シティエアターミナルの西側には駐車場があり、

181209DSC_0122.jpg

さらにその西側には、『箱崎川』第二公園、同第一公園と続きます。
このあたりから、支堀が北に伸びており、武家屋敷地やその奥の松島町への水運を担っておりました。

箱崎川第二公園

『箱崎川』第二公園や同第一公園によって、この地が埋め立てられた『箱崎川』の跡であることを証明されているようで、ある意味貴重な命名といえるでしょうか。たまには奇をてらわず、直球勝負というのもいいものなのかもしれません。
話題は変わりますが、東京シティエアターミナルの駐車場と『箱崎川』第二公園との境界には永久橋が架かっておりました。古くは(元禄当時)50m程度上流に架橋されたようですが、震災復興橋梁として下流側(公園と駐車場の境)に移して架橋されています。永久橋の由来は、箱崎町がかつては“永久島”と呼ばれていたかららしいのですが、何故“永久島”と呼ばれていたかは諸説あるようです。

西に歩を進めましょう。

181209DSC_0123T.jpg

首都高速道路の箱崎料金所がある位置から北に向けて稲荷堀(とうかんぼり)が伸びておりました。こちらの紹介は次回以降に譲ります。

箱崎料金所の入口部分まで来ると『箱崎川』もいよいよ終端となります。

181209DSC_0127.jpg

正面に『亀島川』の日本橋水門が見えてくると、この先で『日本橋川』と合流します。

181209DSC_0130.jpg

『亀島川』やこの位置より南側の『日本橋川(新堀川)』は上空に高速道路などなく、空を仰ぐことができます。何となくホッとする景色です。
箱崎町の発展は、『大川(隅田川)』や『箱崎川』による水運事業が活性化し、箱崎町に幕府御船蔵(1657年)や船見番所(1665年)が設けられるだけでなく、陸上交通上有用な永代橋が1698年(元禄11年)に架橋されていき、商業地として栄えます。現在の永代橋は隣の霊岸島側から対岸に架かっておりますが、江戸期の永代橋は箱崎町から対岸の佐賀町に架橋されました。五代将軍徳川綱吉生誕50年記念事業として関東郡代伊那忠順の指導という、何ともはや...というキャスティングです。

当時の隅田川の最下流河口、ほぼ江戸湊の外港だったところに位置し、多数の廻船が通過する場所で、付近には船見番所が置かれていました。そのため、船の通行を阻害しないようにと、完成した橋は当時最大規模の大橋として造られました。橋脚は満潮時でも水面から3m以上余裕があり、長さは110間(約200m)、幅3間余(約6m)、橋上からは「西に富士、北に筑波、南に箱根、東に安房上総」と称されるほど見晴らしの良い場所であったと「武江図説」に記載されています。

この永代橋が有名になった出来事が2つあります。
まず1つめは、元禄15年12月14日の赤穂義士による両国吉良邸への討ち入り後に、上野介の首を掲げて永代橋を渡り、泉岳寺へ向ったといいます。
2つめは、1807年(文化4年)8月 (新暦では9月)の深川富岡八幡宮の祭礼(深川祭)が行われた時です。久しぶりの祭礼に江戸市中から多くの群衆が橋を渡って深川に押し寄せたそうです。ところが、詰め掛けた群衆の重みに橋が耐え切れず、橋の中央部よりやや東側の部分で数間ほどが崩れ落ち、人々は逃げ場を失ないます。しかし、後ろからさらに群衆が押し寄せて来たため雪崩を射つように川へ転落。死傷者・行方不明者を合わせると実に1400人を超える大惨事となってしまいました。これは史上最悪の落橋事故と言われています。
この事故について大田南畝が下記の狂歌を著しています。

永代と かけたる橋は 落ちにけり きょうは祭礼 あすは葬礼

なお古典落語の「永代橋」という噺(・・・・クリック!)もこの落橋事故を元にしています。
南町奉行組同心の渡辺小佐衛門が、崩落場所に近づけないよう、刀を振るって群集を制止させたという逸話も残っています。曲亭馬琴の「兎園小説」には下記のような記述があります。

前に進みしものの、橋おちたりと叫ぶをもきかで、せんかたなかりしに、一個の武士あり。
刀を引抜きてさし上げつつうち振りしかば、人みなおそれてやうやく後へ戻りしとぞ。

また、このような不幸な出来事ということであれば、関東大震災(1923年;大正12年)当時の橋はほとんどどれも橋底の基部や橋板に木材を使用していたため、震災時焼け落ちてしまって役に立たなかっただけでなく、避難する市民が橋とともに焼け落ち、焼死者や溺死者を多数出してしまった悲しい歴史もあります。
下の写真は、国内初の鉄橋として架橋されたものの、上記の理由で被害を出してしまった永代橋の写真です。

永代橋

この反省を踏まえて現在の橋梁は架橋されており、“震災復興事業の華”と謳われた清洲橋に対して、“帝都東京の門(・・・クリック!)”と言われた永代橋は、ドイツの『ライン川』に架かっていたルーデンドルフ鉄道橋をモデルにし、現存最古のタイドアーチ橋かつ日本で最初に径間長100mを超えた橋となりました。

国内初の鉄橋であった永代橋は、現在の場所(江戸期の位置よりも下流側)に架橋されたため、箱崎町に対する恩恵という点では益する部分が低下してしまいました。一時は日本銀行があったりもしましたが、日本橋本石町へ移転(1896年)してしまうと経済の中心地としての機能も失せてしまい、結果として、箱崎町は三井倉庫や日本郵船などの倉庫が立ち並ぶ物流拠点となりました。現在でも、車社会での交通の要衝であることから、ロジスティックとしての重要拠点であることは変わらないでいる訳ですね。
その点は不変性というか一貫性があってある意味すごいことだと思います。

本年も残り少なくなってまいりました。“平成最後の....”などという謳い文句に踊らされているような浮ついた自分ですが、無事に年を越したいものです。
本年もお眼汚しのブログをご覧いただいて、誠にありがとうございました。良い年をお迎え下さい。

 ※竜閑川・浜町川地図・・・クリックしてご覧下さい。

注)拙ブログにて紹介しております流路地図は、拙ブログに記載している内容をご理解いただくための補助資料として用意しております。第三者に提供したり、共有したりすることを想定して制作しておりません。私的な探究心の備忘録としてご覧願えれば幸いです。

本文中にてご紹介する人物(キャラ等も含む)は、原則として、敬称を略すことで統一しております。しかし、ちゃらんぽらんな性格故、この原則は必然的になし崩しとなる可能性が高いものとご認識下さい。

Posted on 2018/12/26 Wed. 00:00 [edit]

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箱崎川    -流行を意識させるドラマの舞台- 

流行:1. 世間に広く行われ、用いられること。服装・言葉・思想など、ある様式や風俗が一時的にもてはやされ、世間に広まること。はやり。「ミニスカートが流行する」「流行を追う」「流行遅れ」 2.病気などが、急速な勢いで世の中に広がること。「はしかが流行する」 3. 蕉風俳諧で、句の姿が、その時々を反映して変化していくもの。→不易流行 (ふえきりゅうこう) ・・・goo辞書より抜粋




東京都中央区を流れる『箱崎川』とその支川等を辿っております。
『箱崎川』は『大川(隅田川)』の『浜町川』分岐点付近と『日本橋川』の『亀島川』分岐点付近を結ぶ水運に活用された堀です。
後に日本橋中洲を埋め立てたため、日本橋中洲の西北側約400mが延長され、『大川(隅田川)』の“みつまた”付近までとなり、約1kmの流路を形成していました。

前回は、日本橋中洲の歴史と日本橋中洲に至る橋梁等の位置確認を簡単に致しました。しつこいようで恐縮ですが、今回も橋の話題で日本橋中洲を振り返りたいと考えております。

さてさて、復習のようで気が進みませんが、『大川(隅田川)』の“みつまた”側から見た際の橋の位置関係は、最初が男橋、続いて菖蒲橋(しょうぶばし)で、最後に女橋の順です。京橋図書館の資料にある写真によるとこんな絵柄です。

日本橋中洲の橋

写真では真ん中に写っている菖蒲橋にちなんで、あやめ第一・第二公園が設けられたそうなのですが、

181209DSC_0105.jpg

橋の名前は“しょうぶばし”のようです。

女橋

地図の下方に写る中洲橋は、『箱崎川』の支川に架かる橋です。もともとは『大川(隅田川)』に直接つながっていた『浜町川』が日本橋中洲の完成により『箱崎川』との合流となってしまい、『大川(隅田川)』側からのアクセスが間接的になってしまうため、『浜町川』を延伸するように支川を設けた際に架橋されたものです。
現在この支川には、首都高速道路㈱東京東局や

181209DSC_0097.jpg

東京都下水道局中部管理事務所箱崎ポンプ所といった施設が建っています。

181209DSC_0094.jpg

話題が飛んで恐縮ですが、菖蒲橋が架かっていた道は都道474号浜町北砂町線、通称清洲橋通りといいます。『隅田川』に架かる清洲橋から命名された通りです。この菖蒲橋や清洲橋の架かる以前は、“中洲の渡し(なかずのわたし)”が向こう岸に渡るための手段でした。
1873年(明治6年)に開始された渡しで、当時の日本橋中洲は通過するか休憩程度の中継地点でしたが、埋め立てによって日本橋中州が形成されると、日本橋中洲から対岸の深川区清住町(当時)までの運行となりました。
その後、関東大震災復興事業として、“帝都東京の門”と呼ばれる永代橋と対となるような意匠・設計がなされ、清澄町の“清”と日本橋中洲の“州”から清洲橋と命名される橋が1928年(昭和3年)に架橋されると、中洲の渡しは廃止されます。

清洲橋

現在、清洲橋は塗装工事中でネットが架けられているため、その“震災復興の華”と言われた姿を見ることはできません。当時世界最美の橋と呼ばれたドイツのケルン市にあったヒンデンブルグ橋の大吊り橋をモデルにしており、永代橋が雄々しいデザインであることに対して意図的に優美なものを採用しているようです。
自分の思い出としては、清洲橋というとやはり「男女7人夏物語」になってしまいます。トレンディドラマなどという言葉のない時代でしたが、最先端の流行を意識させるつくりだったですね。

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本文中にてご紹介する人物(キャラ等も含む)は、原則として、敬称を略すことで統一しております。しかし、ちゃらんぽらんな性格故、この原則は必然的になし崩しとなる可能性が高いものとご認識下さい。

Posted on 2018/12/19 Wed. 00:00 [edit]

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