渋谷川    -閑話であって一回休みのようなもの- 

閑話:1.むだばなし。2.心静かにする話。もの静かな会話。「一夕の―を楽しむ」・・・goo辞書より抜粋




『渋谷川』中流域の支流群もほぼ紹介を終えて、そろそろ上流を辿っていきましょうか、という展開になってきました。雑草の繁茂も治まり、新宿御苑脇の『玉川上水余水吐』を辿るには絶好の季節ではないかと思ったのですが、そのすぐ下流である外苑(国立競技場や明治公園のあたり)は、次回2020年の東京オリンピックに向けて工事が急ピッチで進められているところであり、『渋谷川(穏田川)』の流路跡がどのように変貌するのかわかってからでもいいのかな、と思い直しました。

新国立競技場2

T成建設案では、このようなせせらぎも設けるような話しになっていたはずなのですが、どうなってしまうのか、養生壁がとれるまでわからないですね。
おそらくですが、かつての国立競技場正面階段そばの「四季の庭」あたりにあったカラータイルの陥没(『渋谷川(穏田川)』流路部分)などは、新競技場に呑みこまれてしまうのでしょう。かつてのありさまを撮影していなかったことが残念でなりません。

そういえば、国立競技場は外苑西通り沿いですが、外苑東通り沿いの『蟹川』の支流跡(市谷薬王寺町の方から弁天町を抜けて『蟹川』本流と合流)も、道路拡幅でその痕跡はなくなってしまいそうです。

弁天町支流2

きっと、他にも開発の波を被って川跡や暗渠が消失してしまう現実があるのでしょう。残念、と語るには感傷的過ぎる感があります。
しかし、雑草があまり茂っていない新宿御苑脇の『玉川上水余水吐』は捨てがたいな、などとない頭を絞ってみたところ、おおっ!っと思う案が浮かびました。
次週以降は、この『玉川上水余水吐』から始まる水の流れを特集致します。まあ、例によってそれ程大したものではないのですが....。

本文中にてご紹介する人物(キャラ等も含む)は、原則として、敬称を略すことで統一しております。しかし、ちゃらんぽらんな性格故、この原則は必然的になし崩しとなる可能性が高いものとご認識下さい。
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Posted on 2016/12/07 Wed. 00:00 [edit]

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笄川    -珍事というには何とも風流な初雪と紅葉- 

珍事:1.珍しい出来事。「前代未聞の―」 2.思いがけない重大な出来事。一大事。・・・goo辞書より抜粋




『渋谷川』中流域の支流群を紹介しています。『渋谷川』中流域における最長支流である『笄川(こうがいがわ)』について、その流れを辿っていきましょう。

前回までで、『笄川』に関して調べたものは無事紹介し終えることができました。今回は、まったく確信を得ていないものですが、あっても不思議ではない支流の存在について検討してみたいと考えております。

その支流は、「有栖川宮記念公園」内にある池の湧水によってもたらされるであろう流れです。

PB04015有栖川宮記念公園

2011年(平成23年)の調査では、公園内に二箇所の湧水が確認されています。

ひとつは園内北東の沢の源頭部付近の湧水で、2006年(平成18年度)調査では枯れていたそうですが、2011年(平成23年)調査の夏季にはわずかながら湧水が認められ、冬季にも湧出が確認できたとのことです。しかし、公園内の沢水としては不足するため、その水は池の脇に設けられた井戸から池の水と地下水をポンプで中流及び最上流に圧送し掛け流しているようです。

PB04020滝

もうひとつは、2011年(平成23年)調査にて新たに確認されたもので、中流部のフェンスより3.5m下流の左岸側階段下の自然湧水です。

有栖川宮記念公園

こちらの湧出量は、同年12月の調査では毎分1.87Lとなっています。
おそらくですが、昔は湧出箇所も多数あり、量も今より豊富であったと思われるのですが、その湧出した水が描いたであろう流れに関する記録は発見できませんでした。実に残念です。

有栖川宮記念公園の南側(広尾稲荷神社の西側)は、かつて徳川幕府の若年寄、堀田摂津守の屋敷があった地です。『笄川』より水を引いた池を設け、そこで舟遊びという園遊会を催したそうです(出典を忘れてしまいました)。その引水先が『笄川』ではなく、この有栖川宮記念公園からの流れであったとすれば(というかその方が無理がない引水ができると思うのですが)、いかがなものなのかな、と思う次第なのですが、如何せん証拠となるものがありません。

推定の話しでいわせていただくならば、この舟遊びには『玉川上水』を開削した玉川兄弟も絡んでいるということだったと記憶していますので、有栖川宮記念公園からの流れは、人工的な水路だったのかもしれません。
そういえば、有栖川宮記念公園の近くにはこんな暗渠道っぽい路地もありますし・・・。

PB04023水路敷?

かつての有栖川宮記念公園は、寛永の頃から常陸笠間藩浅野家 5万3500石の下屋敷でした。あの忠臣蔵で有名な浅野家であり、1645年(正保2年)、常陸笠間藩から播州赤穂藩に転封(領地換え)になります。
1656年(明暦2年)、陸奥盛岡藩南部家の赤坂屋敷と播州赤穂藩浅野家の下屋敷は相対替(等価交換)をすることになり、浅野家は赤坂へ、南部家は麻布へと移ります。

南部家は麻布に移りましたが、赤坂には南部坂(港区赤坂2丁目22)の坂名だけが現在も残っています。また、麻布の有栖川宮祈念公園の南側の坂道も南部坂と呼ばれています。明治5年には、麻布の盛岡藩邸跡地は麻布盛岡町と呼ばれていました。
その後、1896年(明治29年)有栖川宮威仁(たけひと)親王の新邸御用地となり、1913年(大正2年)高松宮に受け継がれ、1934年(昭和9年)高松宮から東京市に公園として寄贈され、その御用地約1万1000坪 が有栖川宮記念公園として開園しました。その後、都立中央図書館等を編入し、現在の規模の区立公園となっています。

初雪と紅葉

いよいよ年末も近くなり、忠臣蔵を語るにふさわしい時期になってきましたが、先日(11月23~24日未明)の東京は、紅葉と初雪とが織り成す景観に驚かされました。願わくば、然したることもなく無事に年を越せますよう祈念しております。

 ※渋谷川中流域支流群地図・・・クリックしてご覧下さい。

注)拙ブログにて紹介しております流路地図は、拙ブログに記載している内容をご理解いただくための補助資料として用意しております。第三者に提供したり、共有したりすることを想定して制作しておりません。私的な探究心の備忘録としてご覧願えれば幸いです。

本文中にてご紹介する人物(キャラ等も含む)は、原則として、敬称を略すことで統一しております。しかし、ちゃらんぽらんな性格故、この原則は必然的になし崩しとなる可能性が高いものとご認識下さい。

Posted on 2016/11/30 Wed. 00:00 [edit]

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笄川    -陸の王者養成機関 慶応付属幼稚舎のお受験- 

受験:試験を受けること。「大学を―する」「―シーズン」・・・goo辞書より抜粋




『渋谷川』中流域の支流群を紹介しています。『渋谷川』中流域における最長支流である『笄川(こうがいがわ)』について、その流れを辿っていきましょう。

前回までで紹介したい支流を無事紹介し終えることができました。今回は、「笄橋」より下流部分の『笄川』本流を紹介致します。「下水道青山幹線」とほぼ同様な軌跡となっており、『笄川』の流路を利用した下水道の施設であることがわかります。

『笄川』の第一回目の記事に記しましたが、『笄川』はもともと『竜川』と呼ばれており、「笄橋」にあたるところは「竜の関」という関所でありました。

笄橋

938年、源氏の祖といわれる源経基は、当時武蔵介(武蔵の国の副知事)でした。経基は武蔵権守(実質の知事)の興世王とともに職権と称して、武蔵の国足立郡内へ強行入部したことから足立郡司(足立郡の長官・現在のさいたま市西区)の武蔵武芝と紛争が勃発し、対立関係に発展します。その対立に介入してきたのが下総の国の平将門です。興世王は武芝・将門と講和しますが、経基はこれを疑い、都に逃げ帰り、翌939年、将門の謀反と報告しました。これが天慶の乱(平将門の乱)の始まりとなります。この経基が都へ行く道筋で、笄を渡す物語は起きた、とされています。

PA23026笄橋・牛坂

『龍土町支流(仮)』が合流していた「笄橋」から下流に進んでいきましょう。『笄公園支流(仮)』や『高樹町支流(仮)』が合流する地点に「堀田坂」があります。

PA23051本流(高・公園合流部)

「堀田坂」とのY字交差点を左に進むと、「福田会(ふくでんかい)」と呼ばれる、仏教僧侶によって運営される児童養護施設「宮代学園」が右岸側にあります。

PA23052本流

PA23053本流

「福田会」の先には、2009年に千駄ヶ谷榎坂より移転してきた「オマーン・スルタン国大使館」があります。

PA23055オマーン大使館

PA23054オマーン大使館

この「福田会」や「オマーン・スルタン国大使館」の近辺は、1932年(昭和7年)頃暗渠化されています。下水道管は、幅3.11m高さ2.41mの大きな四角い管を用いたそうですが、周辺の湧水が豊富なため、暗渠上の地表を流れる清流が当時は存在していたそうです。

PA23056本流

「オマーン・スルタン国大使館」を過ぎると『笄川』は緩やかに左にカーブを描き、前回紹介しました『宮代町支流(仮)』と合流し、「広尾橋」に至ります。

PA23057宮代町支流合流部

PA23062広尾橋交差点

この「広尾橋交差点」にあった「広尾橋」の欄干は、渋谷区郷土博物館・文学館に保存されているのだそうです。

「広尾橋」の下流では、渋谷区と港区の区境が外苑西通り上をはずれて東側にずれ込んでおり、「下水道青山幹線」とは異なる『笄川』の流路を地図上で辿ることができます。

PA23065本流

再び『笄川』の流路が外苑西通り上に戻ってくる地点には、都営広尾五丁目アパートがあります。

PA23063広尾五丁目アパート

かつては、都電の広尾車庫であり、さらに昔は、福沢諭吉が所有する水車がありました。

都電広尾車庫跡説明

『笄川』は「天現寺橋交差点」の南側で『渋谷川』と合流します。

PA23068合流部

『笄川』の水を得た『渋谷川』は、これより下流4.4kmを『古川』と呼称を替えて流れていきます。
ところで、現在の「天現寺橋」は『渋谷川』に架かる橋なのですが、昭和初期までは『笄川』の方に架かる橋でした。

天現寺橋MAP

昔は、外苑西通りなどなく、明治通りに相当する東西の道しかなかったのです。暗渠化されて橋がなくなり、やがて現在の外苑西通りができて、「天現寺橋」は『渋谷川』の橋として復活した訳です。
現在の「天現寺橋」が架かる『渋谷川』と『笄川』の合流地点には、清流復活の碑があります。

IMG_20161023清流復活の碑

1995年(平成7年)より、落合水再生センターで処理した再生水を、渋谷川(古川)だけでなく、目黒川や呑川へも送水・放流しています。まあ、このあたりは『笄川』から離れてしまう話題なので、詳細は別の機会があったら続けさせていただきます。

福沢諭吉はこの「天現寺橋」周辺が大層気に入ったようで、周辺の土地を購入して自分の別邸と慶応大学の寄宿舎(現在の慶応付属幼稚舎)を建てています。また、敷地の一部は福沢が北里柴三郎に寄贈して北里研究所が建設されることとなります。
慶応付属幼稚舎といえば、大変なお受験という印象があります。

慶応幼稚舎試験問題

例えば上掲の図ですが、試験問題は「バスの進行方向はA・Bどちらでしょう?」という結構有名なものです。これを未就学児童が正答するということが信じられないのですが、自分を基準にして推し量っても仕方がないことです。凡夫は凡夫らしく、想像を超える範疇の存在を認識するしかないのでしょうね。

 ※渋谷川中流域支流群地図・・・クリックしてご覧下さい。

注)拙ブログにて紹介しております流路地図は、拙ブログに記載している内容をご理解いただくための補助資料として用意しております。第三者に提供したり、共有したりすることを想定して制作しておりません。私的な探究心の備忘録としてご覧願えれば幸いです。

本文中にてご紹介する人物(キャラ等も含む)は、原則として、敬称を略すことで統一しております。しかし、ちゃらんぽらんな性格故、この原則は必然的になし崩しとなる可能性が高いものとご認識下さい。

Posted on 2016/11/23 Wed. 00:00 [edit]

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笄川    -大団円では終らないからこその人気演目- 

大団円:演劇や小説などの最後の場面。すべてがめでたく収まる結末についていう。「―を迎える」・・・goo辞書より抜粋




『渋谷川』中流域の支流群を紹介しています。『渋谷川』中流域における最長支流である『笄川(こうがいがわ)』について、その流れを辿っていきましょう。

前回は、堀田坂周辺に集まる支流を二つ辿りました。今回は、主に聖心女子大学キャンパス内を流れていた支流を紹介致します。

聖心女子大学は、1916年開校の私立聖心女子学院高等専門学校を前身とし、1948年、聖心女子大学として発足しました。

聖心女子大学南門

そのキャンパスは、もとの久邇宮(くにのみや)邸であり、香淳皇后(昭和天皇皇后)さまが幼少期を過ごされた地です。そういえば、皇后美智子さまも聖心女子大学の卒業生であらせられました。
さらにそれ以前は、幕末の安政の五カ国条約締結時など重要な時期に幕府の老中首座を務めた、下総佐倉藩主堀田家の下屋敷でした。
堀田家下屋敷の敷地は、聖心女子大学の他に日本赤十字医療センターや日本赤十字看護大学、

PB04007広尾日赤医療センター

PB04008日赤看護大学

広尾ガーデンヒルズ(マンション)となっています。

PB04009広尾ガーデンヒルズ

PB04011広尾ガーデンヒルズ

この一帯はかつて「宮代町」と呼ばれており、さらにそれ以前は「笄開谷(こうがいだに)」でした。本流が『笄川』ですので、紛らわしくないよう『宮代町支流(仮)』としておきます。『宮代町支流(仮)』は、聖心女子大学と日赤看護大学や広尾ガーデンヒルズとの境界を流れていきます。

始まりはこの聖心女子大学正門の中からです。残念ながらオジサン一人では敷地内に入ることができません。見学と思われる女性陣の後ろからこっそりと撮影することしかできないのが、何とも・・・・です。

PB04001聖心女子大学

仕方がないので、日赤医療センター側からアプローチを試みてみました。

PB04002広尾上宮保育園

上掲の広尾上宮保育園の裏の道がおそらく流路ではないかと思われます。

PB04003宮代町支流

ほぼ東に進む流路は、聖心女子大学の敷地際ぎりぎりを進み、北門付近で大学のキャンパスを抜け、下の写真に写る歩道部分付近を流れていたものと推測されます。

PB04012宮代町支流

広尾橋交差点手前で『笄川』本流に合流します。

PA23057宮代町支流合流部

日赤医療センターの敷地内には、かつて佐倉惣五郎ゆかりの推定樹齢300年といわれた“二代目宗吾の松”という赤松があり、2007年(平成19年)医療センターの耐震工事の際に移築されました。関東地域での巨大地震が発生した場合、病院機能の停止というような事態も強く危惧されていたため、地域医療の使命を果たし、非常災害時には医療救護の拠点とする目的で、建物の全面改築となった訳です。詳細は“こちらのHP”をご覧下さい。

前述した通り、下総佐倉藩主堀田家の下屋敷ですので、佐倉惣五郎の義民物語の悪役ともいうべき立場の方のお屋敷に、今回の『宮代町支流(仮)』の流れは存在したのです。

史実としてはいかがなものかという歴史的裏付けなのでしょうが、とにかく日本人はこういう“義民物”が大好きなんですね。
最初の舞台化作品は、三世瀬川如皐による歌舞伎狂言『東山桜荘子(ひがしやまさくらそうし)』(1851年、江戸中村座初演)です。本作では舞台を室町時代に、主人公の名を「浅倉当吾」として、当時の政治情勢に配慮しています。なお、この作品は歌舞伎史上はじめて「農民一揆」を扱った作品で大当たりとなり、以後「義民物」と呼ばれる一ジャンルの嚆矢となりました。明治時代後期以後は役名を実名通り上演し、演題も「佐倉義民伝」で定着することになりました。
何といっても子別れの段は涙もののお芝居です。

しかし、たった一人で時の最高権力者である第四代将軍徳川家綱に直訴する、という荒技と、その結果、訴えは聞き届けられ佐倉藩の領民は救われましたが、惣五郎夫妻は磔となり息子4人も死罪となった、という大団円とはいかない悲痛さにたまらなさを感じます。

 ※渋谷川中流域支流群地図・・・クリックしてご覧下さい。

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笄川    -自由とフラジャイルこそ美学ー 

フラジャイル:壊れやすいさま。もろいさま。「―な愛について考える」・・・goo辞書より抜粋




『渋谷川』中流域の支流群を紹介しています。『渋谷川』中流域における最長支流である『笄川(こうがいがわ)』について、その流れを辿っていきましょう。

前回は、六本木法庵寺近辺から始まる流れを辿りました。今回は、堀田坂周辺に集まる支流を二つ紹介致します。

笄橋より『笄川』本流を南に下ると堀田坂があります。先日『いもり川』を採り上げた後に篤姫輿入れ道中の記事にて、『笄川』を越える箇所(・・・クリック!)として紹介致しましたので、ご参照いただけると幸いです。

PA23051本流(高・公園合流部)

この堀田坂下に東西それぞれから集まる支流がありました。

■笄公園支流(仮)

東側から流れてくる支流です。下のgoo古地図(明治期)で見ると、ほぼ中央のクランク状の流れです。

笄公園支流MAP2

赤い傷口のような線は路面電車で、ほぼ現在の外苑西通りの位置に相当します。というか、地上と地下の違いはあるものの、日比谷線の軌跡に相当しているといった方がふさわしいのかもしれません。同じ鉄道という意味でですが...。
現在の笄小学校の敷地のさらに東側は高台になっており、周囲の水を集めて流れを形成しているのでしょう。

PA23045源流部

上掲の写真に写る通用門?っぽい箇所は、南北で見ると最も低い位置にあり、ここを流れは通過していたのだと思われます。
笄小学校の西側にある笄公園内でクランクに折れ、

PA23044笄公園

外苑西通りを渡っていきます。

PA23049笄公園

渡った先は、おそらく水路敷だと思われますが、袋小路となっています。袋小路の先は冒頭で紹介した堀田坂下です。ここで『笄川』本流と合流します。

PA23050笄公園支流


■高樹町支流(仮)

かつての河内国にあった丹南藩主高木氏の屋敷内にあった池を水源にして、東側の堀田坂下に向かう流れです。
首都高速の出入口や六本木通りと日赤通り・骨董通りとの交差点に名前の残る「高樹町」の元となった高木氏の邸宅ですが、明治期中旬までは水源の池が存在していたようです。

高樹町支流MAP

上掲の地図は、1883年(明治16年)の東京図測量原図です。左上の2箇所の池が高木邸の池で、そこから堀田坂まで続く谷筋を伝う流れがあります。下の図は、1897年(明治30年)の東京一目新圖です。こちらには当該支流の流れが書き込まれています。

高樹町支流MAP2

現在、高木氏の屋敷跡はマンションとなっており、池の痕跡はまったくありません。

PA23039高樹町支流

上掲のクリーニング屋さんの奥が高木氏の屋敷だった敷地です。このあたりを抜けた流れは、港区立高陵中学校の敷地を通過します。

PA23035高陵中学校

PA23037高樹町支流

すぐ上の写真に写るガレージの奥が高陵中学校です。
プールのあるあたりを流れは通り、短い暗渠道を経て住宅地内に消えていきます。

PA23034高樹町支流

堀田坂に出てくる箇所は、おそらくこの不自然な隙間のある塀の位置だと思います。堀田坂を横切って、『笄川』本流と合流します。

PA23033高樹町支流

高樹町は、“日本のファッション・イラストレーターの草分け”という陳腐な言葉で紹介するには申し訳ない長沢節が、曹洞宗大本山永平寺別院長谷寺(ちょうこくじ)内にかつてあった麻布あけぼの幼稚園内に「セツ・モードセミナー」を開いた地です。
「あの人は弱いから綺麗」「あの人は弱いから好き」「あの人は弱いからセクシー」などと、フラジャイルな官能宣言に感服します。自由とガリガリを偏愛した方なんだと思います。その徹底ぶりが何とも(陳腐ですが)素晴らしいのです。当然、講師陣や生徒たちもそうそうたる面々がいますし、交友のあった人々にも驚かされます。

長沢節1960~

長沢節1980~

テレビ朝日「パネルクイズ アタック25」の司会者である谷原章介を見ていたら、つい長沢節を思い出してしまいました。ちょうど高樹町を流れる支流を採り上げることだし、長沢節について書こう、と考えたのですが、書きたいことはいっぱいあるのですが具体的に何を書いていいのやら絞り切れず、つまらない紹介になってしまいました。ご興味のある方はぜひググッてみて下さい。もちろん彼(谷原章介)もセツ・モードセミナーの生徒でした。

 ※渋谷川中流域支流群地図・・・クリックしてご覧下さい。

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