青山上水    -おおらかな逸話と凶弾による武力行使の共存- 

共存:二つ以上のものが同時に生存・存在すること。「動物と人間とが共存する」・・・goo辞書より抜粋




『玉川上水余水吐』を紹介したいがために立ち上げた企画である『青山上水』。前回は、神宮外苑から青山一丁目までの流れを紹介しました。今回は、赤坂方面に至る流路を辿っていきます。

『青山上水』は、青山一丁目の自転車置き場から南下し、外苑東通り沿いに芝や虎ノ門方面に進む流れと、そのまま東側に進み、赤坂方面に至る流れとに分岐します。
赤坂方面に至る流れは、山王メディカルセンターの北側を抜け、

PC18033青山上水

カナダ大使館の敷地内を進みます。

PC18036カナダ大使館

カナダ大使館の隣には、日銀総裁や蔵相、内閣総理大臣を務めた高橋是清翁記念公園があり、『青山上水』はその公園とカナダ大使公邸の間を流れていたと思われます。

PC18037高橋是清翁記念公園

流れはさらに東進し、薬研坂に至るのですが、薬研坂の手前には高級マンションの先駆けとなったヴィンテージマンション、赤坂パークハウスがあります。このマンションの敷地境界には実にわかりやすくカラー舗装の施された部分があり、ここを『青山上水』は進んでいたものと推測されます。

PC18040青山上水

薬研坂は、その名の通り、中央が窪み、両側の高い形が薬を砕く薬研に似ているために名づけられたものです。青山通りからですと、下り坂の後底部に至り、その後登り坂となって三分坂に至ります。上り下り両方の坂をもって薬研坂は構成されています。

IMG_20161218_153424薬研坂

IMG_20161218_153435薬研坂

薬研坂を越えると『青山上水』は通称「コロンビア通り」に至ります。

IMG_20161218_153812.jpg

かつて、音楽関係の企業である日本コロンビアがあった(現在は虎ノ門へ移転)ため、コロンビア通りと呼ばれるようになった道ですが、このコロンビア通りと円通寺坂に挟まれた地区はかつての“黒鍬谷”です。「新撰東京名所図会」には「赤坂一木町と丹後町の間を“黒鍬谷”へ下る坂(円通寺坂)あり」と記されています。
“黒鍬谷”は渋谷のそれ(・・・クリック!)と同様、“黒鍬者”と呼ばれる卓越した土木作業員の集落です。江戸城の改修などに従事していたのでしょう。

このあたりは『太刀洗川』が流れていたはずですので、『青山上水』は『太刀洗川』に注ぎ、『鮫川(桜川)』に至る道程を辿っているのかもしれません。
「一ツ木通り」を抜け、

IMG_20161218_154524.jpg

「みすじ通り」、「田町通り」を越えた流れは、いかにもな細道を抜けて「外堀通り」に至ります。

IMG_20161218_154747.jpg

『赤坂川』を堰き止めて造ったといわれる『溜池』に至近の距離であり、この周辺あたりが『青山上水赤坂線』の終点ではないかと思います。

IMG_20161218_154828.jpg

カナダ大使館の隣にある高橋是清翁記念公園は、高橋の私邸があった場所です。1936年(昭和11年)2月26日、この私邸で叛乱軍襲撃部隊に6発の銃弾を撃たれ、高橋は暗殺されてしまいます(二・二六事件)。享年82(満81歳没)でした。
その風貌から“ダルマ蔵相”と呼ばれていた高橋是清翁は、酒好きとしても有名であり、国会本会議場の席でも堂々と茶碗酒をすすっていたそうですが、誰も咎める者はいなかったといいます。
仁徳と呼ぶには何ともうらやましい話しですが、その見た目(ダルマ蔵相)同様ギスギス感のない周囲の対応に関するおおらかな逸話とは裏腹に、凶弾に倒れてしまう結末は、逆恨みといってしまうのが呆気ないくらい言葉足らずな感じがして、軍靴の音が聞こえてきそうな幕引きです。平和ボケかもしれませんが、両者が共存する狂った時代の流れに驚くばかりです。

 ※青山上水地図・・・クリックしてご覧下さい。参考程度にしかなりませんが....。

注)拙ブログにて紹介しております流路地図は、拙ブログに記載している内容をご理解いただくための補助資料として用意しております。第三者に提供したり、共有したりすることを想定して制作しておりません。私的な探究心の備忘録としてご覧願えれば幸いです。

本文中にてご紹介する人物(キャラ等も含む)は、原則として、敬称を略すことで統一しております。しかし、ちゃらんぽらんな性格故、この原則は必然的になし崩しとなる可能性が高いものとご認識下さい。
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Posted on 2017/01/11 Wed. 00:00 [edit]

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青山上水    -青一といえば“あみん”という刷り込みと「待っとるがや」- 

刷り込み:生まれたばかりの動物、特に鳥類で多くみられる一種の学習。目の前を動く物体を親として覚え込み、以後それに追従して、一生愛着を示す現象。動物学者ローレンツが初めて発表した。刻印づけ。インプリンティング。・・・goo辞書より抜粋




『玉川上水余水吐』を紹介したいがために立ち上げた企画である『青山上水』。前回は「神宮外苑」の紹介に終始してしまいました。今回はその流路を辿っていきます。

信濃町駅を通過した『青山上水』は、神宮外苑の信濃町駐車場や「にこにこパーク」を抜けて南下していきます。「にこにこパーク」内に夏季のみOPENする“森のビアガーデン”は開放感があって素敵です。

森のビアガーデン

「にこにこパーク」の先には「京都造形芸術大学」とその姉妹校の「東北芸術工科大学」の東京キャンパスである「日本文化芸術研究センター」があります。「東京から世界に向けて日本の芸術文化を発信していく」ことを目的にしたもので、「世界に向けて“藝術立国”を発信する」をコンセプトに「社会を変えていくインパクトを与えられる人材の育成」を目指しているそうです。
『青山上水』はこの「日本文化芸術研究センター」内を流れていたと思います。

外苑キャンパス

さらに進むと、青山練兵場時代の遺跡である「御観兵榎」があり、『青山上水』の流れはその端を通過していたと思われます。
「御観兵榎」は、明治天皇御台臨のもとに、1890年(明治23年)の憲法発布観兵式、1906年(明治39年)の日露戦役凱旋観兵式などが行われました。その際、明治天皇の御座所は常にこの榎の大木の西側に設けられていましたので、この木を「御観兵榎」と名付けられました。残念ながら1995年(平成7年)の台風12号の余波によって初代の榎は倒れてしまい、現在は二代目の榎が植え継がれています。

PC18009御観兵榎

南下した『青山上水』は、神宮外苑の東端を流れていたのでしょう。

PC18026神宮外苑

現在の青山通りを渡ると左に折れ、帝国データバンクや本田技研工業の裏を流れ進みます。

PC18029青山上水

青山ツインビルの南側、自転車置き場を抜け、外苑東通りに進んでいきます。

PC18030自転車置き場

自転車置き場の隣には、「赤坂消防署発祥之地」記念碑があります。
港区は、1947年(昭和22年)以前、赤坂区・麻布区・芝区の3つに分かれていて、青山地区は赤坂区に属していたため青山に赤坂消防署があるのです。
《赤坂消防署は、この地に大正十五年に誕生し、以来昭和三十年までの間地域と一体となって、協力と和のもとに防災の拠点としてその任務を果たした。》と、碑には標されており、当時は署長以下43人、ポンプ自動車2台(A型.B型)、水管自動車1台、水管車1台、救助袋、救助幕各1の装備であったといいます。

PC18031赤坂消防署跡

記念碑は、白い石に金属プレートが貼り込まれ、上に赤銅色の立方体の彫刻が乗ったユニークな形をしています。これは火消しの纏(まとい)をかたどったものだそうです。
現在の赤坂消防署は、青山霊園の北側で隣接する場所にあり、1955年(昭和30年)に移転しています。移転後も当時のまま、“赤坂”の名称を引き継いでいます。

『青山上水』は、ここ青山一丁目駅付近で虎ノ門・芝方面に至るルートと赤坂方面に進むルートとに分岐します。
青山一丁目駅といえば、古くて恐縮ですが、“あみん”の「待つわ」のPVに登場したりしておりましたことを覚えております。

それで、“あみん”から連想するのが“陽気なあみん”で、このデュオが「待っとるがや」という唄でレコード化寸前まで進んでいた、という事実は、名古屋地区以外では意外と知られていないようで残念な限りです。
確かローカルスターベストテンとかいう番組で好評を博すも、“あみん”の事務所サイドからレコード化を阻止されたのではなかったかと記憶しておりますが、どうだったでしょうか。
因みに、内容は立派な名古屋弁による替え歌で、その歌詞は下記のようなカンジだったかと....。

  どえりゃあふりして あの子
  わりとやるもんだがや
  言われ続けた あの頃 生きるのが辛でかんわ
  行ったり来たり すれ違い おみゃさんと私の恋
  いつかどこかで 結ばれるってことは
  永遠の夢
  青く 広いこの空 誰のものでもありゃせんわ
  風に 一片の雲 流して流されて
  私 待っとるがや いつまでも待っとるがや
  たとえおみゃさんが 振り向いてくれんでも
  待っとるがや(待っとるがや) いつまでも待っとるがや
  他の誰かに おみゃーさんが 振られる日まで


探してみたのですが、当然、ようつべとかに画像は残っていないようです。残念ですが、本家本元・暗い方(失礼w)の「待つわ」を貼っておきますのでお許しを。



 ※青山上水地図・・・クリックしてご覧下さい。参考程度にしかなりませんが....。

注)拙ブログにて紹介しております流路地図は、拙ブログに記載している内容をご理解いただくための補助資料として用意しております。第三者に提供したり、共有したりすることを想定して制作しておりません。私的な探究心の備忘録としてご覧願えれば幸いです。

本文中にてご紹介する人物(キャラ等も含む)は、原則として、敬称を略すことで統一しております。しかし、ちゃらんぽらんな性格故、この原則は必然的になし崩しとなる可能性が高いものとご認識下さい。

Posted on 2017/01/04 Wed. 00:00 [edit]

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扇川:四扇    -正体不明が正体の扇?- 

正体:1.隠されているそのもの本来の姿。本体。「正体を現す」「正体不明の怪人物」 2.正常に意識が働いているときのようす。正気。「正体もなく眠る」 3.(「御正体」の形で)神仏の本体。神体。「御―をば取りて本宮にゐてたてまつりて」〈今昔・三一・一〉・・・goo辞書より抜粋



新年挨拶

初夢に見ると縁起がいいとされる《一富士二鷹三茄子》。
その先というのか続きというのか、四番目は“扇”です。いわゆる「末広がり」という縁起物でございます。

扇の中でも特に華やかなものが「檜扇:ひおうぎ」でしょうか。檜の薄い板でつくられた扇を文様にしたものでして、花嫁衣装に用いられる華やかな文様です。女性が用いるものは特に「袙扇(あこめおうぎ)」とも呼ばれております。 十二単衣のお姫様が持っている扇ですね。

檜扇

ベタで恐縮ですが、“扇”の名を抱く川といえば、名古屋市内の『天白川』水系の『扇川』や古都鎌倉を流れる『扇川』といったところだと思います。

扇川:名古屋

扇川:鎌倉

鎌倉の『扇川』は、海蔵寺に近い源氏山の麓に源流があり、そこから鎌倉中心部を流れる『滑川』に合流する2km足らずの短い川ですが、結構な清流で魚や蟹など生き物の姿も見ることができます。

でもやっぱり、“扇”という単語から思い浮かぶものは、西尾維新の小説「〈物語〉シリーズ」の登場人物である「忍野“扇”」なのです。

忍野扇

「私は何も知りませんよ。あなたが知っているんです。阿良々木先輩」という声がCV.水橋かおりで再生されます。
ハイ、わかっていますヨ、あり得ないんですけどね。あり得ないのですが、自らの否定によって誕生する「阿良々木暦」の分身というのか怪異というのか、畏怖というよりも面妖な存在、そういうものが新年(というテーマのとき)に浮かんでくる自身のお粗末さに、「崇高」には程遠い存在であることを自覚させられる点が、実にツキナミで悩ましいところです。

どうぞ、本年もよろしくお願いします。


本文中にてご紹介する人物(キャラ等も含む)は、原則として、敬称を略すことで統一しております。しかし、ちゃらんぽらんな性格故、この原則は必然的になし崩しとなる可能性が高いものとご認識下さい。
敬称を略すことに深い理由はありません。略さないのであれば、できる限り公平性を保ちたいので、全員に何らかの敬称を考えねばならないことが負担になりそうな気がしただけです。基本、めんどくさがりなのです。
あしからずお許し願います。

Posted on 2017/01/01 Sun. 00:00 [edit]

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青山上水    -暗い世相と憂い顔の画家- 

世相:世の中のありさま。社会のようす。「現代の世相を反映する事件」・・・goo辞書より抜粋




『玉川上水余水吐』を紹介したいがために立ち上げた企画である『青山上水』を辿る記事も三回目となりました。今回は、「神宮外苑」周辺へと進んでいきます。

「神宮外苑」は、正式名称を「明治神宮外苑」といい、<明治天皇の業績を後世まで残そう>という趣旨で建設された洋風庭園で、内苑(渋谷区代々木にある明治神宮)に対して、外苑と呼ばれています。
明治神宮による管轄の関係から、神社の敷地の一画と見なされており、内苑である明治神宮は“神社建築”を基調としているのに対して、外苑は“洋風”を基調としているのが特徴です。

PC18024神宮外苑

現在、神宮外苑となってるこのあたりは、江戸時代(末期)には、 丹波篠山藩青山家の下屋敷、 出羽山形藩水野家の下屋敷、 日向飫肥藩伊東家の下屋敷、御鉄砲場、御先手組組屋敷、百人組組屋敷、その他が入り組む一帯でした。1887年(明治19年)、帝国陸軍の日比谷練兵場を官公庁街としたことから、練兵場を当地に移転し、青山練兵場となりました。1892年(明治24年)には、 陸軍大学校も移転し、さらに軍事色が強まります。
1912年(大正元年)9月13日夜に、7月末に崩御された明治天皇の大喪が執りおこなわれ、葬儀殿が置かれた場所は、その後、絵画館(聖徳記念絵画館)となりました。

PC18007神宮外苑絵画館

1914年(大正3年)に大正天皇即位を祝し、産業振興を期して開催された東京大正博覧会(主会場は上野公園、第2会場は不忍池畔)の青山分会場として「御即位模型館」「軍艦三笠模型」「美人島探検館」 「インド僧ミイラ館」などが置かれ、また、格納庫を造り、当時、導入されたばかりのフランス国モーリス・ファルマン式飛行機を展示しました。ちなみに、芝浦分会場では海軍関係の展示がされています。
その後、 明治神宮外苑としての整備が始まり、1926年(大正15年)に完成しています。明治神宮造営局主任技師の折下吉延により銀杏並木が設計され、聖徳記念絵画館を中心として、明治記念館、運動場、野球場などの施設が整備されました。

1918年(大正7年)には現在の秩父宮ラグビー場となってる場所に学習院女学部が移転してきて女子学習院となりましたが、1945年(昭和20年)5月の空襲で全焼し、そのまま戸山に移転しています。戦前に使用してた現在の国立競技場が進駐軍に接収されたので、ラグビー協会は女子学習院の焼跡をラグビー場としました。
第二次世界大戦後は、銀杏並木の道路用地が東京都に移管され、競技場は初のアジアオリンピック開催に備えて国立競技場として現文部科学省に移管・改築されました。これを除けば、明治神宮外苑の全体は明治神宮が管理しており、広く国民に開放され、都心における大規模で貴重な緑とオープン・スペースになっています。
2020年の夏季オリンピック誘致決定に向けて、近隣に建設される新国立競技場はメインスタジアムに決定しており、神宮外苑地区におけるスポーツ施設の再配置、神宮球場再整備や神宮外苑・代々木公園を再開発するとした構想が打ち出されています。

『青山上水』は、この神宮外苑の東端をかすめるように進んでいきます。
かつては、兵器補給部隊があった慶応義塾大学付属病院と信濃町駅の間を抜け、JR中央線(かつての甲武鉄道)を越えていきます。

信濃町駅

この信濃町駅ですが、もともと甲武鉄道が新宿駅から都心方向へのルートとして計画していたのは、現在の靖国通りに沿って市ヶ谷を経由し、そこから飯田町を経て神田三崎町に向かうものでした(1890年:明治22年7月仮免状下付時点)。この段階ではルート上にない信濃町駅の計画は存在していません。
その後、青山練兵場への兵員・物資の輸送用鉄道として利用したい軍部からの要望もあり、現在の中央線ルートへと計画が変更され本免許が認可されました(1894年:明治26年3月免許状下付)。そのとき初めて信濃町駅が計画されたわけですが、その場所は現在の信濃町駅と概ね同じだったようです。
しかし、ここで一つの問題が出てきました。現在の信濃町駅を見てもわかるのですが、駅構内と比較して神宮外苑側が少し高い地形になっています。これでは、信濃町駅から青山練兵場に物資を運ぶのが大変です。そこで、練兵場側との高低差が小さい現在の千駄ヶ谷駅に近い場所に駅位置を変更することにしました。このときの駅は、駅周辺の町名から「大番町駅」と当時の文書内では呼ばれています。この「大番町駅」の内容で東京市の市区改正委員会の認可ももらい、いよいよ工事が始まりました。
ところが、1894年(明治26年)6月の段階で駅位置を再度変えることになり、市区改正委員会に対して計画変更の申請が行われました。このとき市区改正委員会に提示された駅位置変更の表向きの理由は、「旧位置では勾配があり工事が難儀する。また新しい位置の方が公衆にも頗る利便を与える」というものでした。しかし、一部の委員から「そんなことは最初の調査段階で判っていたことではないか。工事を始めてから判ったというのか」と文句が出ます。最もなご意見です。このままでは、計画変更の申請が否決されかねない雰囲気です。ことここに至って、青山軍用停車場の計画が始めて明かされます。軍の機密なので、できれば明かしたくなかったのかもしれません。
さすがに軍用停車場のためといわれると委員たちは反対できなくなります。出席委員全員の賛成により駅位置変更が認められました。1894年(明治26年)6月25日のことでした。そして、その1か月後の7月25日に日清戦争が始まります。さらに9月には青山軍用停車場が完成し、ここから多くの兵士が戦地に運ばれていくことになります。

青山練兵場引込線2

青山練兵場停車場への引込線は途中で打切られているものの分岐点が現存しています。

この青山練兵場停車場といい、本来のテーマからどんどん逸れていきますので紹介だけに留めますが、御所トンネルといい、“鉄オタ”にとっても魅力溢れる地であろう「神宮外苑」。その東端となる地を流れていた(と思われる)『青山上水』は、これから起こる悲惨な戦争など将来の話し過ぎて実感の伴わないものでしょう。

戦禍と呼ぶ逸話にはことかかないのでしょうが、最後に画家いわさきちひろの話しを載せておきます。
「神宮外苑」に隣接していた日本青年館には、戦前、大日本青年団結婚相談所がありました。ここにちひろの母親が勤めており、開拓結婚相談所の主任としていわゆる「大陸の花嫁」を満州に数多く送り出しました。他人様の花嫁を自信を持って送り出すよう推奨する訳ですから、無責任ことはできなくなります。そうなると自身の娘ちひろも送り出さざるを得なくなってしまいます。
結果、ちひろは望まぬ結婚を強いられたばかりか、夫の自殺も経験。戦中、戦後とさんざん苦労し、戦後はその反省をもとに自らの生を生きると決心して、創作活動に打ち込むことになります。画家いわさきちひろを生んだのは、皮肉なことに戦争と切り離せない当時の世相でした。そのためでしょうか、彼女の描く子供たちは憂い顔が何ともいえず素敵です。

いわさきちひろ:戦火のなかの少女

 ※青山上水地図・・・クリックしてご覧下さい。参考程度にしかなりませんが....。

注)拙ブログにて紹介しております流路地図は、拙ブログに記載している内容をご理解いただくための補助資料として用意しております。第三者に提供したり、共有したりすることを想定して制作しておりません。私的な探究心の備忘録としてご覧願えれば幸いです。

本文中にてご紹介する人物(キャラ等も含む)は、原則として、敬称を略すことで統一しております。しかし、ちゃらんぽらんな性格故、この原則は必然的になし崩しとなる可能性が高いものとご認識下さい。

Posted on 2016/12/28 Wed. 00:00 [edit]

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青山上水    -維新の激動と水車を突き動かす水流- 

激動:はげしくゆれうごくこと。特に、状況・情勢などがめまぐるしく変化すること。「激動する世界情勢」・・・goo辞書より抜粋




無理くり企画として立ち上げました『青山上水』ですが、実のところ詳細がよくわからなくて困っております。正確な流路がわからず、添付の地図はいい加減なものになっております。非常にもやもやとした気分でこのブログを記しておりますことをお許し下さい。

まあ、いきなりそんなネガティブワードを並べられても・・・・、というのがお読みになる方の本音でしょうし、そんなに気乗りしないのならば無理せず違うテーマにしたら...とおっしゃりたくなるところでしょうが、何か今記しておかないとほんのちょっと先にはもっと訳がわからなくなっていそうで、そのくらい東京という街の開発がそこかしこで進められており、国立競技場周辺については今こそ記しておかなければ、という、ある種の強迫観念のようなものに突き動かされて、重い腰を上げている次第でございます。

『青山上水』は、1660年(万治3年)に開削され、1722年(享保7年)に廃止されています。『玉川上水』の四谷大木戸の水番所付近から分水し、青山・赤坂・麻布・六本木から飯倉を経て、芝方面に給水しておりました。

『玉川上水』から分水された箇所は『玉川上水余水吐』と呼ばれ、新宿御苑脇に設けられた流路跡は、都心部であることを忘れさせてくれるような、ある種幻想的な景観を有しています。

P101023玉川上水余水吐

P101024玉川上水余水吐

この『玉川上水余水吐』の流れの隣地である「新宿御苑」は、信濃高遠藩内藤家の下屋敷のあった地です。
徳川家康は、江戸入府後家臣の内藤清成を呼び、現在の新宿御苑一帯を示し「馬でひと息に回れるだけの土地を与える」と語ったといいます。清成の乗った駿馬は、南は千駄ヶ谷、北は大久保、西は代々木、東は四谷を走り、疲れ果て死んでしまったので、大樫の下に埋めたと伝えられています。これとよく似た話しが青山家にもありましたね。
後に内藤家の森林の管理役となった中家休昌と木下正敷が、1816年(文化13年)に樫の古木の跡に塚を造り、駿馬塚の碑を建てました。碑はその後、1872年(明治5年)に現在地に移されたものだそうです。

PC09030駿馬塚

この駿馬塚は「多武峯神社(とうのみねじんじゃ)」にあります。

P101028多武峯神社

また、この「多武峯神社」には“鉛筆の碑”があり、1887年(明治20年)、三菱鉛筆創業者の眞崎仁六は現在の新宿区内藤町に、水車を動力とした鉛筆工場を建て、工業生産を開始しています。

P101030鉛筆の碑

『玉川上水余水吐』に戻りましょう。水番所付近は勾配も緩やかでしたが、やがていい感じの曲線を描きつつ、傾きも急になっていきます。

PC09037玉川上水余水吐

玉川上水余水吐2

途中には水量を調整していた跡と思われる遺構も一対残っており、

PC09038玉川上水余水吐遺構

PC09035玉川上水余水吐遺構

人工的な流れであることを思い出させてくれます。

やがて、外苑西通りにぶつかる寸前の位置に横穴が設けられており、この箇所から大京町交番の下に流れは進んでいきます。

P101032渋谷川分岐口

この横穴は、現在下流側がコンクリートで塞がれており、水を通すことは不可能です。

P101036渋谷川分岐口

『玉川上水余水吐』は、大京町交番の下を抜け、

P101035渋谷川源流部

外苑西通りを渡ったところで『渋谷川(穏田川)』と別れを告げ、大京町と信濃町の境界を流れていきます。橋の遺構は経年による劣化が見られるのでしょうか。防護柵が設けられていました。

PC09024青山上水

外苑ホテルと北里記念医学図書館との間の道には、橋の一部でしょうか、『青山上水』の通過地点に遺跡と思われるものがあります。

PC09009橋の遺構?

その後、大京町と信濃町の境界を進み、

PC09005青山上水

PC09007青山上水

外苑東通りの左門町交差点に出て、

PC09006左門町交差点

そこでほぼ直角に南方向に曲がり、慶応義塾大病院の前を抜けて信濃町駅前を通過し、神宮外苑の脇を流れていきます。

PC09001慶応大病院

PC09002外苑西通り:信濃町駅前

『玉川上水余水吐』が大京町交番の下を通過する際に設けられている横穴の上あたりには、「池尻橋」という橋が架かっておりました。

池尻橋MAP

橋のそばには植木屋「植甚」柴田平五郎宅があり、その離れで新撰組の沖田総司が1868年(慶応4年)逝去しております(今戸八幡という説もあり)。離れは現在の外苑西通り上にあった模様で痕跡は皆無です。

P101034沖田総司逝去の地

P101033沖田総司逝去の地案内

約3カ月間、この地で結核の療養生活を送った後の死でした。享年27歳、若くしてこの世を去った隊士の眼に移る『玉川上水余水吐』の水流はどのようなものだったのでしょう。「池尻橋」のそばには水車があったので、『玉川上水余水吐』はそれなりの勢いをもった流れであったと思われます。維新もその水流に負けず、大きなうねりは日本という国を呑みこんで、変革へといざなう時機らしく、歴史の変動点に相応しいものであったといえるのではないでしょうか。

 ※青山上水地図・・・クリックしてご覧下さい。参考程度にしかなりませんが....。

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Posted on 2016/12/21 Wed. 00:00 [edit]

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