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浜町川    -後ろめたい土地柄?- 

後ろめたい:1.自分に悪い点があって、気がとがめる。やましい。「親友を裏切ったようで―・い」 2.自分の目が届かず、不安である。心もとない。気がかりだ。「我なからむ世など―・し」〈落窪・二〉 3.油断がならない。気が許せない。「是ほど―・う思はれ参らせては」〈平家・二〉・・・goo辞書より抜粋



東京都中央区を流れる『浜町川』を散策しております。
『浜町川』は『神田川』と『隅田川』をつなぐ運河です。元和年間(1615年~23年)頃に『隅田川』側から掘り進み、『竜閑川』と合流するのが1691年(元禄4年)です。この当時は『浜町堀』と呼ばれておりました。その後、1883年(明治16年)には『神田川』まで延長しました。神田、日本橋両地区の繁栄に貢献した物流のインフラともいうべき運河です。

先日、スマホをいじっていたらとても画期的な地図アプリを発見しました。「古地図 with MapFan」というものでして、現代と江戸時代の古地図を同時に表示してくれる優れモノです。スマホだけでなくPC版もあるのですが、IEでは開けず、Google Chrome等で開かなければならないことが自分的には面倒なのですが、その面倒を補って余りある便利さです。かなり感動しています。

蠣殻銀座

これが前回、前々回の記事で紹介しました箇所の『浜町川』の地図ですが、このように上側に現代地図、下方に古地図が表示されます。
もちろんスクロールさせることができますし、古地図と現代地図の表示割合を変えることもできます。環境次第なのかもしれませんが、動きも滑らかで古地図につなぎ目などの違和感は微塵もありません。
コレはとてもイイです。絶賛活用中です。
一応、江戸の朱引き外の地区も網羅されていますが、自分の生まれた『水窪川』源流部付近が切れてしまっているのは惜しまれます。

そうそう、古地図には江戸時代のものだけでなく、先の東京オリンピック以前の昭和のもの(1964年以前)も用意されているというありがたさ。

小川橋

小川橋以南が開渠で表示されるという、暗渠フリークにとって重要な時代の区切りとなる、先の東京オリンピック寸前の昭和の地図も拝めるなど微笑みが止まらない仕様です。
全くどうでもいいことですが、力道山率いる日本プロレス協会の本部が日本橋浪花町にあったことは一部ファンには著名なのですが、こうして地図に表示されていると嬉しくなってしまいます。明治座の社長もしていた新田新作がスポンサーだったからでしょうかね、関東国粋会新田組組長さんでしたが....。

それで今回の本題です。江戸期の古地図をご確認下さい。

蠣殻銀座2

『竃(へっつい)河岸』の先に“銀座”と表示されている場所が二箇所あることがわかりますでしょうか。

江戸時代の“銀座”とは、銀貨を造る役所(銀貨幣鋳造所)のことでして、当初“銀座”は、江戸・京都・大阪・長崎に設置されたのですが、1800年からは江戸に統一されています。
その江戸の“銀座”ですが、1612年、徳川幕府は現在の中央区銀座に銀座役所を設置しました。当時、正式な町名は「新両替町」とされたのですが、通称で“銀座”と呼ばれ、その後、明治2年には正式に町名が“銀座”となっています。

“銀座”の運営は幕府が行うのではなく、御用達町人によって組織・運営されておりました。京都は湯浅作兵衛の長男である大黒作右衛門、江戸は次男である大黒長左衛門が銀改役となり以後世襲制となっています。
1800年(寛政12年)、江戸銀座において上納銀の滞納など不正行為が発覚したことを機に、銀改役の大黒長左衛門八代目常房は家職放免の上、永蟄居を命じられ、その後京都銀座から大黒作右衛門十代目常明が江戸へ招致され、京都および江戸両座の銀改役を兼任することとなりました。この銀座粛正の後、50人を越えていた座人は15人に縮小され、蛎殻町(現在の日本橋人形町)に移転される事が申し渡されました。
これ以降、京都および京橋で行われていた貨幣鋳造は蛎殻銀座に集約され、幕府による統制が強化され御用達町人による請負事業から事実上幕府の直轄事業となりました。また京都、大坂の銀座は、貨幣吹替えの際の旧銀の回収、引替、銀地金の買上並びに銀貨の包封などの役割りにとどまることとなっています。

蠣殻銀座跡

京橋銀座と呼ばれた現在の中央区銀座は、世界的な規模で知られる土地になりましたが、蠣殻銀座の方は知る人ぞ知る、という感じでしょうか。
そもそも、日本全国に“○○銀座”と名のつくところがたくさんあって、銀座の意味するところが大幅に変化してしまっていることも遠因でしょうが、艶街だったりした場所ですので、どこか後ろめたいものがあったりするのでしょうかね。華やかなスポットライトというよりは、屈折した光の当たり方をしている土地柄なのかもしれません。そういうところもこの地の魅力なのですが....。

 ※竜閑川・浜町川地図・・・クリックしてご覧下さい。

注)拙ブログにて紹介しております流路地図は、拙ブログに記載している内容をご理解いただくための補助資料として用意しております。第三者に提供したり、共有したりすることを想定して制作しておりません。私的な探究心の備忘録としてご覧願えれば幸いです。

本文中にてご紹介する人物(キャラ等も含む)は、原則として、敬称を略すことで統一しております。しかし、ちゃらんぽらんな性格故、この原則は必然的になし崩しとなる可能性が高いものとご認識下さい。
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Posted on 2018/11/14 Wed. 00:00 [edit]

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浜町川    -信念の人の所業を讃えた碑- 

信念:1.正しいと信じる自分の考え。「信念を貫き通す」「固い信念」 2.宗教を信じる気持ち。信仰心。・・・goo辞書より抜粋



東京都中央区を流れる『浜町川』を散策しております。
『浜町川』は『神田川』と『隅田川』をつなぐ運河です。元和年間(1615年~23年)頃に『隅田川』側から掘り進み、『竜閑川』と合流するのが1691年(元禄4年)です。この当時は『浜町堀』と呼ばれておりました。その後、1883年(明治16年)には『神田川』まで延長しました。神田、日本橋両地区の繁栄に貢献した物流のインフラともいうべき運河です。

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小川橋跡より南側は、浜町緑道公園となっています。

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この浜町緑道公園の最北部には、“漢方医学復興の地”の碑があります。

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漢方医学とは、日本の風土や気候、日本人の体質に合わせて発展を遂げた我が国独自の伝統医学であり、治療に対する人間の身体の反応を土台に体系化した医学なのだそうです。古代中国に発する経験医学を導入したのが5~6世紀頃といわれ、模倣から始まったものも、処方の有用性を第一義として経験的・臨床的に良所を享受した結果、17世紀あたりで急速に発展し、体系化されて今日を迎えています。前回の記事で簡単にふれましたが、曲直瀬道三や玄朔らによって、時の権力者たちの医療を担当し、普及、定着させてきたものです。
“漢方”という呼称は、西洋医学を表す“蘭方”と区別するために用いられたもので、17世紀頃の鎖国状態では、西洋からの物品や学問、文化などはオランダを窓口としてもたらされていたからでしょう。

明治期に入ると漢方医学は衰退し、存続の危機とも言うべき状況に陥ります。
1872年、明治政府は西洋医学中心の新しい医療教育制度を整備し、1874年には西洋医学のみに医業の開業許可を出すようになります。
西洋医学一辺倒ともいうべき状況に当時の漢方医たちは存続運動を展開し、漢医継続願を1895年の国会に諮るのですが、僅差で否決されてしまいます。

ドイツ(当時はプロシャ)医学を模範とする西洋医療中心の医学制度導入によって、西洋医学以外の漢方を学んだ者には医師資格を与えない制度下となってしまい、公的な医学教育の場から漢方は完全に排除されてしまいます。この困難な状況を打破するきっかけとなったのが和田啓十郎の「医界之鉄椎」という自費出版本で、1910年に苦労の末千部発行します。大いなる反響を巻き起こし、1915年には治験例も書き加えて(初版本に感銘した湯本求真らによる臨床治験例を加筆)さらに千部を自費出版します。
碑には、下記の碑文が刻まれています。

漢方醫學復興の地
和田啓十郎先生は漢方医学がまさに絶滅せんとしたとき この地において衣を薄うし 食を粗にして得たる資金を以て明治四十三年 醫界之鐵椎を自費出版し 漢方医学の復興に立ち上がった
今や漢方再興の気運に際会し 先生の旧趾に碑を建て その偉業を顕彰するものである
昭和五十三年十月十日
日本東洋医学会
東亜医学協会
日本医史学会

この二回に渡る自費出版の費用捻出がたたったのか、和田啓十郎は45歳の若さで逝去してしまいます。
西洋医学の隆盛期に、逆風を受けつつも漢方医学の有用性を信じて疑わなかった信念の人の所業を讃えた碑は、時々疲れた人が休憩代わりにもたれかかったり、周縁のレンガ部分に腰掛けたりしていてどちらかというとあまり目立たないものです。でもまあ、それがいいんじゃないでしょうかね。

 ※竜閑川・浜町川地図・・・クリックしてご覧下さい。

注)拙ブログにて紹介しております流路地図は、拙ブログに記載している内容をご理解いただくための補助資料として用意しております。第三者に提供したり、共有したりすることを想定して制作しておりません。私的な探究心の備忘録としてご覧願えれば幸いです。

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Posted on 2018/11/07 Wed. 00:00 [edit]

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浜町川    -代表作といっても過言でない- 

過言:1.大げさすぎる言い方。言いすぎ。かげん。「実力では世界一と言っても過言ではない」 2.度を過ぎた言葉。無礼な言葉。かげん。「酒の力で雑言―を并 (なら) べ立つれば」・・・goo辞書より抜粋



東京都中央区を流れる『浜町川』を散策しております。
『浜町川』は『神田川』と『隅田川』をつなぐ運河です。元和年間(1615年~23年)頃に『隅田川』側から掘り進み、『竜閑川』と合流するのが1691年(元禄4年)です。この当時は『浜町堀』と呼ばれておりました。その後、1883年(明治16年)には『神田川』まで延長しました。神田、日本橋両地区の繁栄に貢献した物流のインフラともいうべき運河です。

前回紹介しました問屋橋商店街を抜けて真砂橋跡を越えると、久松町区民館に至ります。

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この久松町区民館は『浜町川』を埋め立てた上に建てられています。
その先は久松児童公園です。

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その東側には久松警察署があり、

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南側には小川橋が架かっておりました。

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太平洋戦争後の1950年頃にこの小川橋跡以北を先行して埋め立てたのは既に記した通りです。
小川橋の橋名の由来は、清水定吉という拳銃強盗によって殉職してしまった巡査名からだったかと記憶しています。

さて、小川橋のすぐ南側には“竈(へっつい)河岸”と呼ばれる掘割の一画がありました。掘割は、現在の人形町通りまで直線的に延びておりました。

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「東京府志料」によると、
蛎殻町二町目ニ傍ヘル入堀ナリ北岸ヲ里俗“竃河岸”ト云 延袤(えんぼう)一町四十八間幅五間 舟筏通セス
とあります。
『東・西堀留川』の記事中にも記しましたが、この地には三甚内のひとりである庄司甚右衛門の請願によって、江戸初の遊郭である吉原(後に浅草寺裏の日本堤に移転するため、移転前を元吉原、移転後を新吉原と呼ばれる)遊郭が開かれます。
竈河岸のある掘割は、その元吉原を囲む掘割の一辺といわれています。
幕府が庄司甚右衛門に提供した土地は、日本橋葺屋町続きの2丁(約220m)四方の区画で、海岸に近く、一面に葭(よし)が茂り、当時の江戸全体からすれば僻地と呼んでいい場所でした。“吉原”の名はこの葭の原っぱであったことから来ており、当初は“葭原”と称しておりました。

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上掲の写真の場所が大門のあった場所で、大門通りと呼ばれる道です。
江戸は拡大を続け、僻地であった元吉原周辺にも屋敷地が開墾されるようになり、明暦の大火を契機に新吉原に引っ越しし、跡地には、江戸歌舞伎の始まりといわれる中村座など、歌舞伎の芝居小屋が立ち並ぶようになりました。
芝居小屋に付随して陰間茶屋(BLってやつです)が生まれ、イロっぽい街の伝統を繋いでいたのですが、1841年(天保12年)、中村座の焼失で芝居小屋群は浅草の後の猿若町に移転したため、陰間茶屋も消失してしまいます。そんなところに、天保の改革で江戸市中の岡場所(非公認の花街、遊廓)が取り潰されたため、深川から逃れてきた芸妓が移り住むようになり、いつしか芳町(よしちょう)と呼ばれる芸妓の花街となっていきました。
幕末から明治、大正、昭和にかけて繁栄を極め、日本で最初の女優となった川上貞奴や芸妓から歌手に転向した勝太郎ら名妓を輩出しています。

玄冶店浜田家

しかし、高度経済成長期以後は衰退してしまい、1977年(昭和52年)の町名改正で町名としての芳町が消滅してしまいます。それと併せるように料亭は減少し続け、現在では「濱田家(現名称は玄冶店濱田家)」1軒となってしまっています。また、一時は300名近くもいた芸妓も指を折って数えられるほど(2010年時点で16名)となってしまったようです。
唯一残っている「玄冶店濱田家」は、フジテレビのミタパンこと三田友梨佳アナの実家としても名高いので、ご存知の方もいらっしゃるかもしれません。

この“玄冶店(げんやだな)”ですが、日本橋界隈の古くからの地名もしくは通りの俗称名でして、徳川家の御典医であった岡本玄冶の拝領屋敷跡一帯を指したものです。

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岡本玄冶は3代将軍家光が痘瘡を病んだ際に全快させて名を高め、その後、幕府から拝領した土地に借家を建てて庶民に貸したことから一帯が“玄冶店”と呼ばれるようになりました。
曲直瀬道三(まなせ どうさん)の養子である曲直瀬玄朔(まなせ げんさく:二代目道三)に師事しており、この二代目道三の邸宅の北側の入り堀は『道三堀』という、江戸初期の重要な物流ルートだったりします。

玄冶店は、歌舞伎の「与話情浮名横櫛(よわなさけうきなのよこぐし:通称切られ与三)」の三幕目に“源氏店”と読み替えて舞台設定されています。七五調の歯切れのいい科白や、かなり年配の方であれば春日八郎の歌う歌謡曲「お富さん」などをご存じかも知れません。

しがねえ恋の情けが仇、命の綱の切れたのを、どう取り留めてか木更津から、めぐる月日も三年(みとせ)越し、江戸の親には勘当(かんどう)受け、拠所(よんどころ)なく鎌倉の、谷七郷(やつしちごう)は食い詰めても、面(つら)へ受けたる看板の、疵(きず)が勿怪(もっけ)の幸いに、切られ与三と異名を取り、押借り強請(ゆす)りも習おうより、慣れた時代の源氏店(げんじだな)、そのしらばけか黒塀に、格子造りの囲いもの、死んだと思ったお富とは、お釈迦様でも気がつくめえ。

三代目瀬川如皐が作者である「与話情浮名横櫛」は、八代目市川團十郎、四代目尾上梅幸(後の四代目菊五郎)らによって幕末に演じられ、大変好評だったそうです。世話物の代表作といっても過言ではないのでしょうね。

 ※竜閑川・浜町川地図・・・クリックしてご覧下さい。

注)拙ブログにて紹介しております流路地図は、拙ブログに記載している内容をご理解いただくための補助資料として用意しております。第三者に提供したり、共有したりすることを想定して制作しておりません。私的な探究心の備忘録としてご覧願えれば幸いです。

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Posted on 2018/10/31 Wed. 00:00 [edit]

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浜町川    -境界をなすかのような錯覚- 

境界:1.土地のさかい。「隣国との―」 2.物事のさかい。「哲学と文学の―」・・・goo辞書より抜粋



東京都中央区を流れる『浜町川』を散策しております。
『浜町川』は『神田川』と『隅田川』をつなぐ運河です。元和年間(1615年~23年)頃に『隅田川』側から掘り進み、『竜閑川』と合流するのが1691年(元禄4年)です。この当時は『浜町堀』と呼ばれておりました。その後、1883年(明治16年)には『神田川』まで延長しました。神田、日本橋両地区の繁栄に貢献した物流のインフラともいうべき運河です。

鞍掛橋の先(『大川』側)の東・西緑河岸周辺です。

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緑橋周辺は『浜町川』を活用した水運の基地として機能していました。

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緑橋跡の先は汐見橋跡。

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続いて千鳥橋跡。

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その先が榮橋跡です。

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この榮橋跡の東側に問屋橋交番という交番があるのですが、

問屋橋交番

このあたりから次の高砂橋跡あたりまでは問屋橋商店街と呼ばれておりました。

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問屋橋商店街

戦後の瓦礫処理のために『浜町川』を埋め立て、その埋立地に人形町や日本橋界隈の露天商を強制的に都が移動させた商店街です。“バラック”という表現がふさわしい建物が現存しておりますが、残念ながら営業はほとんどされていらっしゃらないようです。

問屋橋商店街2

この一画だけ時間が停止しているようです。そのせいか、隣接する駐車場との段差がかつての護岸のようにも見えてしまいます。

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河川の縁というか、結界の際というのか、昭和ともうすぐ終わってしまう平成との境界をなしているようで、乱雑に散らかっているゴミや雑草一つひとつに意味があるかのような錯覚に陥ってしまいます。酒が切れてきたんでしょうね。早く補充せねば....。

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Posted on 2018/10/24 Wed. 00:00 [edit]

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浜町川    -子供心に憧れたもの- 

子供心:物事の深い意味や人情などを理解できない、子供の心。がんぜない、おさな心。「子供心にも悲しく感じられた」・・・goo辞書より抜粋



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『浜町川』は『神田川』と『隅田川』をつなぐ運河です。元和年間(1615年~23年)頃に『隅田川』側から掘り進み、『竜閑川』と合流するのが1691年(元禄4年)です。この当時は『浜町堀』と呼ばれておりました。その後、1883年(明治16年)には『神田川』まで延長しました。神田、日本橋両地区の繁栄に貢献した物流のインフラともいうべき運河です。

日本橋北神田浜町絵図

竹森神社の裏を抜けると竹森橋が架かっていた地点を抜けて江戸通りに至ります。

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江戸通りには鞍掛橋が架かっておりました。近くの交差点名にもなっています。

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鞍掛橋の由来は、日本橋二之部町会史(原文のまま)によると、
江戸のはじめ伝馬町は、伝馬駅逓を司るところとして俗に大伝馬町は荷物の駅、小伝馬町は人間の駅として有無相通して両町は伝統と繁栄をきづいてきました。この橋は伝馬の馬と博労の鞍ということが多いところであったため、この名前がつけられたと考えられます。
と、あります。
かつての陸上交通の要衝地に『浜町川』や『竜閑川』による水運が加わった訳です。なかなかな物流拠点ですね。
この鞍掛橋の隣にあった緑橋周辺は、西側が西緑河岸、東側が東緑河岸と呼ばれておりました。

伝馬や博労といった話題ばかりでしたので、ちょっと違う方向の話しも加えておきましょう。
中央区日本橋馬喰町には、1615年(元和元年)創業の株式会社柳屋本店(・・・クリック!)があります。

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ポマードなどの整髪料を扱う化粧品メーカーです。
1584年(天正12年)、明から渡来し、徳川家康の侍医を務めていた呂一官が、「紅屋」という商号で店を構え、髪に塗る香油を中心に食用紅、化粧紅、練紅、白粉などの製造販売を始めたのが上記の1615年です。 その後、1850年(嘉永3年)に近江商人の外池半兵衛義治正願が養子としてその営業権を引き継ぎ、自らは柳屋五郎三郎と称すると、その後は香油を中心に整髪料に特化した商売に切り替えました。やがて、大正期に「柳屋ポマード」を発売。これが大いに売れたことで、同社を支え続ける主力製品となっています。 2015年(平成27年)には、創業400周年を迎えた老舗企業としてその名を知られております。

前回の東京オリンピック開催時、日本が高度成長期にあった頃は、ポマードは柳屋、チックは丹頂(現マンダム)と男性化粧品は相場が決まっておりました。早く大人になって整髪料を使ってみたい、と子供心に憧れたものです。

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Posted on 2018/10/17 Wed. 00:00 [edit]

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