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東京五輪マラソンコース    -真偽の程は判断がつきませんが....- 

真偽:真実と、いつわり。まことかうそか。「真偽のほどはわからない」・・・goo辞書より抜粋




東京五輪2020のマラソンコースを辿る企画を進めています。新旧の東京の名所を織り込んだなかなかに心憎いコース設定です。
という訳で、このマラソンコースが横切る廃河川・堀割を紹介し、改めて東京の名所旧跡を訪ねてみよう、という取り組みで、早くも半年が過ぎてしまいました。予想していたよりも長いシリーズになってしまい恐縮ですが、もうしばらくこのテーマでお付き合い下さい。

芝公園付近で折り返した選手一行は、日比谷通りを北に進み、西新橋交差点で外堀通りを右に曲がり、更に左折して中央通りを北に進みます。銀座や日本橋といった繁華街を抜け、神田の須田町交差点で靖国通りを左折して西に向きを変え、神保町交差点で左折して白山通りを南に進みます。

神保町交差点までは既に通過したコースを逆に辿って来ましたが、白山通りを南にとって『日本橋川』を一ツ橋で越えると、平川門交差点より先は内堀通りとなります。江戸城の内堀と並行して走るコースです。

平川門交差点

この内堀通りの内堀側の歩道は、いわゆる“皇居ラン”と呼ばれる皇居の外周路を利用したランニングコースの設定がなされており、一周およそ5kmとわかりやすい距離と適度な高低差(30m程度)、途中に信号がないのでタイムの計測がしやすい、水飲み場やトイレ等の施設が周辺に点在している、等々の好条件が相まって、ランニングフリークからは高い評価を得ているのだそうです。
そんなランナーの聖地をコースに加える心憎さに感心致します。

さて、8月というのは先の第二次世界大戦が終了した月です。1945年8月6日に広島へ、9日には長崎へ原爆が投下されました。原爆投下によって終戦が決定された、という説もありますが、とにかく、日本は世界で初の原爆による被爆国になったのです。
さらに、1954年には第五福竜丸がビキニ環礁でアメリカ軍の水素爆弾実験により発生した多量の放射性降下物(死の灰)を浴びています。水爆の被爆も世界で初めてでした。

そんな水爆実験の影響を受けて誕生した、とされているのが東宝映画の怪獣ゴジラです。
日比谷にはゴジラ像が飾られており、“GODZILLA”とも標記される通り、日本のみならず世界規模での人気ぶりに観光資源化している感があります。

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ご承知の通り、放射能による被爆被害は重篤なものがあります。また、その影響力は凄まじいものがあり、政治利用や殺傷兵器の開発などは言語道断と言えるものです。
眼に見えない、ということも(時には風評被害を生み出しますが)、畏怖の対象としてその効果を高める方向に役立っていることと思われます。

科学の発達した現在でさえ、眼に見えないという畏怖が存在するのですから、昔の人々からすれば、眼に見えなくて論理的に説明のつかないものは畏怖の対象として扱われていたことでしょう。例えば、祟りや呪いの類といえばわかりやすいですかね。

江戸城の正式な出入口は大手門です。わりと簡素な門構えですね。

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この大手門からほど近い場所に“将門の首塚”と呼ばれる場所があります。

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平安時代後期、当時の地方行政は国司に任せっきりで中央朝廷は官治できず、横暴や横領などが蔓延り、治安が悪化しておりました。そんな悪化した治安に対処するために桓武平氏や清和源氏などの武士が出現します。
平将門の祖父も国司でありながら武士化した存在で、父の死による相続争いに乗じて台頭するきっかけを得た将門は、瞬く間に関東八ヶ国の国府を攻撃し、各国司を追放してしまいます。これが平将門の乱で、自ら“新皇”と称して下総の猿島(茨城県)に独立国を立ち上げ、朝廷と対立する姿勢を取ったのです。

朝廷は、早速、諸社諸寺に怨敵将門退治の祈祷を命じ、藤原忠文を征東大将軍に任命して将門の乱の鎮圧に向かわせました。その結果、この討伐軍が到着する前に、将門は地元の武士である藤原秀郷等に討たれました。戦いに敗れた将門の身体は、現在の茨城県坂東市の延命院に埋葬されましたが、首級は平安京に運ばれ都大路の河原にさらされました。

さらしものになった将門の首は何ヶ月たっても腐らず、生きているかのように眼を見開き、夜な夜な「斬られた私の五体はどこにあるのか。ここに来い。首をつないでもう一戦しよう」と叫び続けたと言います。
また、三日目には将門のさらし首が関東を目指して空高く飛び去ったとも伝えられ、途中で力尽きて地上に落下したとも言われています。この際、将門の首は複数箇所に落下した模様で、その落下地点に各々首塚伝承が出来上がったそうです。
また、このような非業の最期を遂げたため、将門を日本三大怨霊(他には崇徳天皇と菅原道真)と呼んでいます。
その中でも、最も有名な首塚伝承がここに紹介する大手町の“将門の首塚”で、大手町というビジネス街というか高層ビル群に佇む異空間の様相を示す一角となっています。

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この大手町の将門の首塚の恐ろしさは、科学万能の現代においても怨念が継続している(のではないかという)点にあります。
そもそもは、14世紀初頭、平将門の祟りと云われた疫病が流行しました。そこで“将門の首塚”の近くにあった神田明神が将門の霊を供養したところ疫病が沈静化したことから始まります。神田明神の“神田”は、地名ではなく“からだ”が訛ったものだとか。首級と身体、切っても切れない関係性です。
その後、神田明神は江戸城の増築等で現在地(千代田区外神田二丁目)に遷座しますが、首塚を護持します。

神田明神

しかし、1874年(明治7年)、明治天皇が行幸するにあたって、天皇が参拝する神社に逆臣である平将門が祀られているのはあるまじきこととされて、平将門が祭神から外されます。
そのためということもないのでしょうが、1923年の関東大震災によって東京一帯は大変な損壊を蒙ります。当時、首塚と隣接していた大蔵省は瓦礫と化してしまったため、首塚を壊して仮庁舎を建設したのですが、その後僅か2年の間に、当時の大蔵大臣を始め関係者14名が亡くなり、それ以外にも多くの怪我人や病人が続出したことから仮庁舎は取り壊されて首塚を復活させました。

また、1940年には落雷による火災で大蔵省が再び全焼。あわてて将門のためのイベントを企画。塚に古跡保存碑を建立しています。
1945年には、日本に進駐してきた米軍がそんな曰くつきの土地とは知らず、首塚の周辺を駐車場にしようと計画し、その年の暮れに工事を開始します。すると作業中のブルドーザーが突然ひっくり返り、死人まで出る大騒ぎになりました。
その後、高度成長時代、国が首塚の周囲のごく一部だけを残して、土地を金融機関に売却しました。塚の参道の土地には日本長期信用銀行が建てられました。すると塚に面した部屋の行員が次々と病気にかかるという異常事態が発生する騒ぎとなりました。
隣接するビルは「首塚を見下ろすことがないよう窓は設けていない」とか「首塚に対して管理職などが尻を向けないように特殊な机の配置を行っている」とされる噂があり、三井物産ではどうもそのようであったと言われています。

最後に、関東各地には平将門に関する史跡や寺社等がいろいろあるのでしょうが、東京都内の将門関連の史跡等の位置関係があたかも北斗七星であるかのような配置になっています。というか、しています、が正しいのかな。
江戸の安寧を願って、将門の怨念を封じ込めるためのもので、将門が崇めた妙見菩薩のシンボルである北斗七星の形状に結界を張ったのだそうです。徳川家康というか天海僧正による都市防衛のための結界ということらしいです。

まずは、台東区鳥越二丁目の鳥越神社からです。この“鳥越:とりごえ”は、将門の首が“飛び越え”て来たことに由来する、という説があります。

鳥越神社

また、鳥越神社には将門の手が埋められている、という噂も存在します。

次は、中央区日本橋兜町一丁目の兜神社です。こちらは、このシリーズでも『楓川』の際に紹介致しましたが、源義家の兜を川岸に埋めて必勝祈願した、という逸話の他に、将門の兜が埋められている、という伝承もあるようです。

兜神社

上記の二社、将門の首塚、神田明神に続いて、五番目は『牛込川』にて紹介した筑土神社です。こちらは筑土城跡としてこのシリーズ中で紹介しております。正確に言うと、筑土神社は九段の方に移転しており、現存する社は筑土八幡神社のものです。

筑土八幡神社

将門の首(頭蓋骨や髪の毛)が安置されている、と言われています。
六番目は、新宿区西早稲田三丁目の水稲荷神社ですが、この神社はちょっと異質でして、将門を討った藤原秀郷が創建した神社だったりします。この北斗七星の配置を企んだとされる天海僧正の意図がちょっとわかりかねる選択です。

水稲荷神社

最後は、新宿区北新宿三丁目の鎧神社です。将門の死を悼んだ里人たちが創建したと伝わる神社です。

鎧神社

将門公を討った藤原秀郷がその後重病となり、将門公の神霊の崇りであると恐れて薬師如来を本尊とする円照寺に参詣、将門公の鎧を埋め、祠を建ててその霊を弔ったところ、病気がたちまち治ったとも言われているとか。 人々はその御神徳に恐れ畏み、村の鎮守として尊崇してきたのだとも言われています。

この北斗七星模様の結界には続きがあって、明治政府は靖国神社を中心とし、雑司が谷霊園、谷中霊園、築地本願寺、青山霊園によって北斗七星の結界の上から魔法陣を敷いている、のだそうです。
さらに、JR山手線の軌道によって、北斗七星の両端である鎧神社、兜神社、鳥越神社を頭と尾に見立ててそれを切り離して霊力を分断する、という手法をとっているのだとか。
もう、この辺のオカルトじみた話しになると真偽の程は判断がつきませんが、いろいろな手を用いて首都東京を守ろうとしている努力は理解しないといけないのでしょう。そのくらい、現代においても将門の怨念は恐ろしいもののようです。

 ※東京五輪2020マラソンコース・・・クリックしてご覧下さい。

注)拙ブログにて紹介しております流路地図は、拙ブログに記載している内容をご理解いただくための補助資料として用意しております。第三者に提供したり、共有したりすることを想定して制作しておりません。私的な探究心の備忘録としてご覧願えれば幸いです。

本文中にてご紹介する人物(キャラ等も含む)は、原則として、敬称を略すことで統一しております。しかし、ちゃらんぽらんな性格故、この原則は必然的になし崩しとなる可能性が高いものとご認識下さい。
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Posted on 2019/08/14 Wed. 00:00 [edit]

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東京五輪マラソンコース    -こんなに暑い日本の夏に、走るんですかフルマラソン- 

暑い:気温が著しく高い。「今年の夏は異常に―・い」「―・い盛り」「―・い部屋」・・・goo辞書より抜粋




東京五輪2020のマラソンコースを辿る企画を進めています。新旧の東京の名所を織り込んだなかなかに心憎いコース設定です。
という訳で、このマラソンコースが横切る廃河川・堀割を紹介し、改めて東京の名所旧跡を訪ねてみよう、という取り組みで、早くも半年経過しようとしています。予想していたよりも長いシリーズになってしまいました。恐縮ですが、今しばらくこのテーマでお付き合い下さい。

前回、増上寺越しに見る森ビル群に対して、“長い長い時間の経過というか積み重ねてきた歴史が~”などと記してしまいまして、しまったな、というのが正直なところでございます。芝公園内には、さらに過去に遡ってしまう遺跡がございました。

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ハイ、芝丸山古墳です。5世紀代のこの近辺の族長の墓ではないか、ということなのですが、残念なことに外周や墳頂部などは削り取られてしまっており(特に西側がひどい有様)、墳墓は盗掘にあっていて、古墳と表示されていないと判別がつかない状況です。

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しかも、墳頂部には伊能忠敬測地遺功表なるものが鎮座しており、古墳らしさが微塵も感じられません。

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これは、詳細かつ正確性の高い日本地図を初めて作成した伊能忠敬の功績を称えて、明治22年に東京地学協会が建てたものを、昭和40年に再建したそうです。
伊能忠敬は、高輪大木戸から測量を開始したため、比較的近い位置にある当地にこの測地遺功表が建てられたのだそうです。しかし、ここは芝ですから高輪ではないですし、わざわざ古墳の頂上部に建てる意図も判りかねます。

これだけならまだしも、何故か芝丸山古墳上には虎の碑もあったりします。

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この虎の碑は、どうやら自民党副総裁だった大野伴睦の句碑だそうです。昭和38年、調理師法施行5周年にあたって、伴睦が長年調理師会の名誉会長として尽力した労に謝するために贈呈されたものとのことで、碑には“鐘がなる春のあけぼの増上寺”と刻まれているようです。
伴睦は、歌人としても有名らしくこのような句碑を送られたようですが、印象としては、無理やり岐阜羽島駅を造らせた人物という印象が強く、“猿は木から落ちても猿だが、代議士は選挙に落ちればただの人”という名言を残した方でもあります。
まあ、増上寺について詠んだ句ですから当地でもいいのかもしれませんが、虎は何を意味するんでしょうかね。

このように、亡くなった方に対する配慮など全く感じられない有様なのが芝丸山古墳の現状でして、ちょっと起伏のあるウォーキングコースであるかのようです。

この芝丸山古墳の北西側には、かつては弁天池があり、そこから公園内に流れを巡らせ、最終的には『古川(渋谷川)』に注ぐ細流があったのですが、いまは水も枯れ、かろうじて遺構が散見している状況です。そんな遺構の一つである橋(だったもの)を渡って古墳を後にすると、日比谷通りの日差しが眩しく、現実に引き戻されてしまいます。
いや~、暑い! とにかく蒸し暑いです。

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こんなに暑い日本の夏にマラソンなんかして本当に大丈夫なんでしょうか?

 ※東京五輪2020マラソンコース・・・クリックしてご覧下さい。

注)拙ブログにて紹介しております流路地図は、拙ブログに記載している内容をご理解いただくための補助資料として用意しております。第三者に提供したり、共有したりすることを想定して制作しておりません。私的な探究心の備忘録としてご覧願えれば幸いです。

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Posted on 2019/08/07 Wed. 00:00 [edit]

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東京五輪マラソンコース    -煩悩からの脱却- 

煩悩:身心を悩まし苦しめ、煩わせ、けがす精神作用。貪 (とん) ・瞋 (しん) ・痴 (ち) は根元的な煩悩として三毒という。染。結。垢 (く) 。「煩悩にさいなまれる」「煩悩を解脱する」・・・goo辞書より抜粋




東京五輪2020のマラソンコースを辿る企画を進めています。新旧の東京の名所を織り込んだなかなかに心憎いコース設定です。
という訳で、このマラソンコースが横切る廃河川・堀割を紹介し、改めて東京の名所旧跡を訪ねてみよう、という取り組みで、早くも半年経過しようとしています。予想していたよりも長いシリーズになってしまいました。恐縮ですが、今しばらくこのテーマでお付き合い下さい。

中央通りから外堀通りに移り、新橋駅の北側を抜けた選手一行は、西新橋交差点を左折して日比谷通りを南に進みます。
やがて御成門交差点付近で『桜川』を越えます。

御成門交差点

『桜川』は、現在の新宿区若葉から始まる河川で、赤坂御用地内の池を経由し、赤坂見附を抜けて虎ノ門と愛宕山の間あたりで当時の日比谷入江に注いでおりました。上流部は『鮫川』と呼ばれ、日比谷入江埋立ての後は、赤坂の『溜池』と並行した人工流路へと付け替えられ、愛宕山と増上寺の東を南流して、将監橋(しょうげんばし)のたもとで『古川(渋谷川)』に注ぐ流れに変更されましたが、途中はいくつもの細流に分かれており、 今回のマラソンコースも複数回に渡って『桜川』を越えることになります。

御成門は、御成門交差点の進行方向右手側にある大本山増上寺の裏門でして、江戸城の外郭門ではありません。増上寺は徳川家の菩提寺の一つで、将軍が参詣する際にこの裏門がもっぱら用いられましたので、御成門と呼ばれるようになりました。

御成門

現在の御成門交差点の位置にこの御成門はあったのですが、日比谷通りの整備に際し、東京プリンスホテルの駐車場脇に移転されています。
この移転された御成門のそばで再び『桜川』を渡ると、すぐ右手は有章院霊廟だった場所で、再建された二天門があります。

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有章院とは江戸幕府七代将軍徳川家継のことで、その霊廟(墓所)は現在の東京プリンスホテルの敷地に位置しました。霊廟内の建造物は豪華な彩色や彫刻で飾られていましたが、1945年、太平洋戦争(東京大空襲)で大部分が焼失してしまいます。戦災による焼失に合わなかったものも保存等の関係でもともとあった位置から移動したため重要文化財の指定を解除されたものもあり、有章院霊廟関係の重要文化財で指定解除されていないのはこの二天門のみとなっています。つい先日まで修復工事が行われていましたが、ようやくその美しい姿を見ることができるようになりました。

日比谷通りを更に南へ進むと、増上寺前交差点に至ります。ここには増上寺の中門(正門は大門)である三解脱門を右手に見ることができます。

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増上寺が江戸の初期に大造営された当時の面影を残す唯一の建造物で、国の重要文化財に指定されています。 三解脱門とは三つの煩悩「むさぼり、いかり、おろかさ」を解脱する門のことだそうです。
門の内側には細流となった『桜川』の流路跡が残っています。

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また、日比谷通りを挟んで反対側は、かつて松原だったのですが、現在は楠の植えられた緑地帯となっています。ここにもかつての『桜川』の末端と思われる流路跡や橋の遺構が残っています。

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三解脱門の南隣には黒門(旧方丈門)が移築されています。創建当時は黒漆で仕上げられた麗装な外観だったそうです。

黒門(旧方丈門)

方丈とは、1丈 (約3m) 四方の部屋の意で、禅宗寺院の住持や長老の居室を指します。もともとは、御成門交差点の南西部分(御成門小学校やみなと図書館などがある一角)が方丈だったのですが、国家移動開拓使や海軍の施設、公園と役割が変わっていく中で移設を繰り返し、1980年(昭和55年)、現在地に移されました。その際、門扉の破損が激しく移築が難しいため取り除かれてしまっています。

黒門(旧方丈門)から50m程度進むと三度めの『桜川』越えとなります。ここには、旧台徳院霊廟惣門があります。

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台徳院は二代将軍秀忠のことで、やはり太平洋戦争(東京大空襲)の焼失から逃れた貴重な建造物です。ここは、ザ・プリンスパークタワー東京の敷地になり、増上寺の境内から外れてしまうのですが、貴重な遺構であることは間違いありません。
この旧台徳院霊廟惣門の南隣は芝公園となり、いよいよここで選手一行は折返して元来たコースを戻って行きます。

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折返し付近から見える風景は、増上寺の建造物の先にそびえる森ビルの高層ビル達ですね。

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新旧の建造物の異様を一望すると、長い長い時間の経過というか積み重ねてきた歴史が認識できます。自分の小ささというか、世の中の大きさを思い知らされます。ちょっとくらいは煩悩から脱却したのかもしれません。ありがたいことです。

 ※東京五輪2020マラソンコース・・・クリックしてご覧下さい。

注)拙ブログにて紹介しております流路地図は、拙ブログに記載している内容をご理解いただくための補助資料として用意しております。第三者に提供したり、共有したりすることを想定して制作しておりません。私的な探究心の備忘録としてご覧願えれば幸いです。

本文中にてご紹介する人物(キャラ等も含む)は、原則として、敬称を略すことで統一しております。しかし、ちゃらんぽらんな性格故、この原則は必然的になし崩しとなる可能性が高いものとご認識下さい。

Posted on 2019/07/31 Wed. 00:00 [edit]

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東京五輪マラソンコース    -人が運用することを想定した優しいもの- 

運用:1.そのもののもつ機能を生かして用いること。活用。「法規の運用を検討する」 2.自衛隊で、行動の意で使う。「陸海空すべての部隊運用の権限が新設された統合幕僚監部へ移った」・・・goo辞書より抜粋




東京五輪2020のマラソンコースを辿る企画を進めています。新旧の東京の名所を織り込んだなかなかに心憎いコース設定です。
という訳で、このマラソンコースが横切る廃河川・堀割を紹介し、改めて東京の名所旧跡を訪ねてみよう、という取り組みで、早くも半年経過しようとしています。予想していたよりも長いシリーズになってしまいました。恐縮ですが、今しばらくこのテーマでお付き合い下さい。

今更何ですが、このブログのテーマは川や廃河川、運河・堀割等々、開渠・暗渠を問わず水の流れを追い、その流路の名所旧跡等を紹介する、というウンチク自慢のオ●ニーブログです。
なのですが、今回は敢えて水の流れからはずれて、廃鉄の旅に繰り出すことと致します。

選手一行は『汐留川』を越え、中央通りから右折して外堀通りを走ります。右折するとすぐJRのガードを潜るのですが、そのガードの左手はJR新橋駅です。

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新橋といえば鉄道発祥の地。鉄道唱歌にも歌われている通り、この地は明治維新の文明開化を偲ぶ絶好のロケーションと言えます。

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日本の鉄道事業は、1872年(明治5年)10月14日に新橋・横浜間に敷設された軌道から始まります。当時の新橋停車場は汐留駅となり、現在は廃止されています。また、当時の横浜駅は現在の桜木町駅として営業しています。
10月14日の開業日ですが、当時はまだグレゴリオ暦を採用しておらず、天保暦では9月12日となります。予定では9月9日の重陽の節句(陰陽思想では奇数は陽の数であり、陽数の極である9が重なる日であることから“重陽:ちょうよう”と呼ばれる。奇数の重なる月日は陽の気が強すぎるため不吉とされ、それを払う行事として節句が行なわれていたが、9は一桁の数のうち最大の陽であり、特に負担の大きい節句と考えられていた。後、陽の重なりを吉祥とする考えに転じ、祝い事となった)に開業するはずだったのですが、あいにくその日は雨天であったため、9月12日(グレゴリオ暦では10月14日)に順延されたそうです。何だか遠足や運動会のノリに近いものを感じますが、開業日当日は明治天皇の乗車されるお召し列車の運行があったため、天候にも配慮されたのであろうと思われます。
その後、東京駅が帝都の玄関口に位置づけられて旧新橋駅は貨物駅へと変更され、東京駅と繋がる電車線の烏森駅が二代目新橋駅となり、トラック輸送の発展、鉄道貨物輸送のコンテナ化によって汐留駅の貨物輸送機能は品川区八潮の東京貨物ターミナル駅に移管されて現在に至ります。

創業時の新橋駅駅舎は関東大震災の際に火災によって消失。その後、鉄筋コンクリート製の駅舎に改められていますが、2003年(平成15年)に汐留地区の再開発の一環として旧新橋停車場として当時の場所に再現されました。

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現在の港区東新橋一丁目、汐留シティセンターの隣地で、選手一行が中央通りから外堀通りへと右折した位置の南東側の区画にあたります。
旧新橋停車場跡には、再現された駅舎の他に鉄道歴史展示室や鉄道の起点であった“0哩(マイル)標”が当時と全く同じ位置に再現されており、当時のレールが敷設されています。

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長々と前置きを記しましたが、今回紹介する廃鉄は東海道本線の貨物用線路の引込線で、この汐留駅から築地市場へと伸びていた軌道跡です。全行程で約1.1km程度の短い線路跡です。

築地市場引込線MAP

汐留駅には全部で11の上屋(うわや)がありました。上屋とは、貨物の荷捌き、積み降ろし、保管などに使用される建物のことです。 倉庫との大きな違いは、壁が無いか一部の側にだけ設けられていて、大半の場合は開放構造になっているもののことです。
汐留駅構内から伸びる築地市場への引込線はこの上屋を縫うように軌道が敷かれており、軌道の北側に9つの上屋が、南側に2つ上屋がありました。
引込線は現在のイタリア街のあたりから東側に分かれた線路がゆりかもめの現汐留駅の下に当たる箇所を通過して、かつての汐留駅に向かっておりました。
その後、カレッタ汐留(株式会社電通)のあたりで更に東側にそれていき、

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銀座郵便局の南側で『汐留川』を渡ります。現在は東京高速道路となっています。

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『汐留川』を越えてすぐのところには、浜離宮前踏切跡の遺構として踏切用信号機が残されています。

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浜離宮前踏切を通過すると、新尾張橋の位置で『築地川』の堀割を渡ります。『築地川』の東側は尾張藩の下屋敷があった場所でした。そのため『築地川』の南側には尾張橋という橋が架かっていたのですが、新大橋通りの整備とともに廃止されています。その後、引込線の軌道跡を一般区道に改修するにあたり、鉄道橋を道路橋に架け替え、尾張橋の名を後世に残すために“新”の文字を頭につけて新尾張橋と命名されました。

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『築地川』の跡地には首都高速道路が走っています。新尾張橋の下はちょうど汐留トンネルの出入口でした。

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『築地川』を渡ると、浜離宮朝日ホールの南側を通過していきます。

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その後、青果門前交差点付近で新大橋通りを越えた引込線は築地市場の敷地に入ります。

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築地市場内には東京市場駅と呼ばれた引込線の終着駅がありました。

築地市場

その造りは、築地市場の施設外周(上掲の写真の赤い屋根部分)に平行して大きなカーブを描いて線路が敷設されており、市場の線路脇は、貨車から直接荷卸しができるようにプラットホームのような構造になっていて、一度に40両の貨車から荷役作業が可能だったそうです。
昭和の高度成長期はトラック輸送との競合に勝つため、高速運転対応冷蔵車のレサ10000形貨車を開発・使用し、九州・中国地方を発駅とする特急鮮魚貨物列車とびうおや、北海道・三陸地方を発駅とする鮮魚貨物列車とうりん(東鱗)の運行が行われておりました。 レサ10000系は100km/hでの走行が可能なよう設計された特殊な貨車で、特急鮮魚貨物列車専用に運用されました。

レサ10000系

しかし、鮮魚などの水産物輸送による貨車の腐食と長距離輸送での空車回送(帰庫時の空荷輸送)等の効率の悪さによってコンテナ化されるも結局トラック輸送に取って代わられ、1986年(昭和61年)に廃止されました。
また、1984年(昭和59年)には東京市場駅も廃止となり、1987年(昭和62年)鉄道輸送は終了、線路は撤去または舗装によって埋められてしまいます。

31ヘクタールにも及ぶ汐留駅跡地の再開発は1995年(平成7年)から始まり、2004年(平成16年)には、13棟の超高層オフィスビルが建ち並び、4つの大型ホテルや数多くのレストラン、ショップなどが地下通路とペディストリアンデッキでつながる、6万人規模の複合都市として生まれ変わりました。

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また、築地市場は豊洲に移転し、跡地は解体が進められています。

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引込線の軌道の一部は東京都市計画道路幹線街路環状第2号線(環二通り)となって、運輸面等で新たな活用がはかられることでしょう。
輪廻転生とは異なるのかもしれませんが、その時代のニーズに合わせて形を変えた運用がなされることは良いことだと思われます。願わくは、その運用に際して、様々な人が用いることを想定した優しいものであることを、できるだけ人が置き去りにされないものであることを望んでやみません。

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Posted on 2019/07/24 Wed. 00:00 [edit]

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東京五輪マラソンコース    -効率では測れない新たな機運- 

機運:時のめぐりあわせ。物事をなす時機。「機運が熟する」「機運に乗じる」・・・goo辞書より抜粋




東京五輪2020のマラソンコースを辿る企画を進めています。新旧の東京の名所を織り込んだなかなかに心憎いコース設定です。
という訳で、このマラソンコースが横切る廃河川・堀割を紹介し、改めて東京の名所旧跡を訪ねてみよう、という取り組みで、早くも半年経過しようとしています。予想していたよりも長いシリーズになってしまいました。恐縮ですが、今しばらくこのテーマでお付き合い下さい。

『京橋川』を越え、いよいよ中央区銀座に入ってきた選手一行は、中央通りを銀座一丁目から八丁目に向けて進んでいきます。
銀座二丁目には銀座発祥の地碑があります。

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“銀座”という地名は徳川幕府が1612年(慶長17年)に銀貨鋳造所を駿府城下からこの地に移したことに由来します。明治になると、新橋・横浜間に鉄道が敷かれ、中央通りにはガス灯が点けられ、大型商店・百貨店が開店して、一躍東京を代表する繁華街へと発展しました。
その銀座の象徴ともいえる樹木が柳です。

銀座の柳碑

街路樹としての柳は、銀座地区に明治初期から植えられていたようですが、シンボルと言えるほどに植樹されたきっかけは関東大震災復興記念として、長野県安曇野産の柳が大量に植えられてからになります。そして、1929年(昭和4年)菊池寛 の小説「東京行進曲」が映画化された際の主題歌が大ヒットしたことにより、銀座の柳は一躍全国的にも有名になりました。

 ♫昔恋しい銀座の柳
  仇な年増を誰が知ろ
  ジャズで踊って リキュルで更けて
  明けりゃダンサーの涙雨
    西条八十 作詞 中山晋平 作曲

昭和に入り、戦後の混乱も落ち着くと、時代の流れと言ってしまうと簡単ですが、「柳が茂って看板が見えない」「通るご婦人の着物を汚す」などの苦情も出るようになり、さらに1968年(昭和43年)には、ガス・水道等の共同溝設置が行われることになり、根が張らなくなると言う理由で全ての柳が撤去され、日野市に移植されてしまいます。

現在の銀座で最も銀座らしい一角といえば、中央通りと晴海通りの交差点である銀座四丁目交差点周辺ではないでしょうか。

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和光本店、銀座三越といった百貨店やNISSAN CROSSINGなどが角を位置取り、路線価の発表の際には引き合いに出される東京鳩居堂銀座本店などがある場所です。

その銀座四丁目交差点を通過し、GINZA SIX前に差し掛かると、歩道には商法講習所の碑があります。

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商法講習所とは、現在国立市にある国立一橋大学の前身で、1875年(明治8年)に駐米日本代理公使を終えて帰国した森有礼が渋沢栄一の協力を得て、銀座尾張町に創設した商業学校です。一橋大学の創立100年を記念して建てられた発祥碑で、当時は鯛味噌屋の二階を借りて商業教育を始めたそうです。

中央通りから一本西側には今春通り(こんぱるどおり)があるのですが、そこには銭湯の金春湯があります。

金春湯

中央区銀座で開業している銭湯は、今では一丁目の銀座湯とこの八丁目の金春湯となってしまいました。
マラソンコースである中央通りと直行する御門通りには金春湯・今春通りの名の由来である今春屋敷跡の説明板があります。

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徳川幕府の式楽(勅使饗応などフォーマルな儀式の場で上演される幕府の公式な音楽や舞踊)として認められていた能楽(当時は猿楽)の流派の一つである金春流を司る今春家の屋敷が当地にありました。

この今春屋敷跡の説明板がある御門通りですが、1710年(宝永7年)朝鮮の聘使の来日に備えて当地に芝口御門が設けられました。

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御門通りはかつての『汐留川』の流路です。もともとは、赤坂溜池やその上流にあたる清水谷(紀尾井町周辺)や『鮫川(新宿区若葉より)』、『大刀洗川(港区赤坂の東京ミッドタウン裏檜町公園より)』等々の下流部で『桜川』の支流の一つであったものを整地していく過程で堀割化され、江戸城の外堀から浜御殿(現在の浜離宮恩賜庭園)の西縁を抜け江戸湊に抜ける水路となっていったものです。
前述の芝口御門に至る橋として『汐留川』に“新橋(あたらしはし。後に芝口橋と改名され、更に新橋:しんばしと呼び名が変化)”が架けられました。この“新橋”が現在の港区新橋の命名由来です。

新橋親柱

『汐留川』は中央区と港区の境界をなす流れで、御門通りというか東京高速道路を潜ると選手一行は港区へと舞台を変えていきます。

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さて、銀座のシンボルとなるも日野市に移植された柳は、その後残念ながら彼の地にて枯死する木が多発する状況となりました。その全滅を惜しんだ銀座の有志の方々が日野市で数本生き残った柳の枝を持ち帰り、挿し木で二世・三世を育てはじめています。御門通りにはその柳の四世が植えられており、銀座の柳を後世に残そうとされる方々の取り組みの証となっています。

都市化の発展を遂げる上で一旦は撤去された銀座の柳ですが、効率や採算面からでは測れないシンボルとしての効果を認められて存続する取り組みが行われています。文化の練度が向上した、と捉えるべき事柄なのでしょう。日本橋の高速道路埋設といい、銀座の柳復活に対する取り組みといい、新たな機運が見えてきたような感じがします。

 ※東京五輪2020マラソンコース・・・クリックしてご覧下さい。

注)拙ブログにて紹介しております流路地図は、拙ブログに記載している内容をご理解いただくための補助資料として用意しております。第三者に提供したり、共有したりすることを想定して制作しておりません。私的な探究心の備忘録としてご覧願えれば幸いです。

本文中にてご紹介する人物(キャラ等も含む)は、原則として、敬称を略すことで統一しております。しかし、ちゃらんぽらんな性格故、この原則は必然的になし崩しとなる可能性が高いものとご認識下さい。

Posted on 2019/07/17 Wed. 00:00 [edit]

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