いもり川番外編     -篤姫の輿入れに関する調査報告その2- 

報告:告げ知らせること。特に、ある任務を与えられた者が、その経過や結果などを述べること。また、その内容。「出張の―」「事件の顛末 (てんまつ) を―する」「研究の中間―」・・・goo辞書より抜粋




『渋谷川』中流域の支流群を紹介しています。
前々回、「渋谷城」の外堀機能もあったという『いもり川』についてその流れを辿ってみましたが、知人連中から「いくら何でも輿入れの行列が長すぎやしないか?」といった疑問や「よく調べもしないでウィキペディア(・・・クリック!)を転記しているだけなのでは・・・」といったスルドい意見をいただいてしまいました。

“輿入れの行列の先頭が江戸城内に到着しても最後尾は藩邸に留まっていた”というエピソードは、当時の記録(「温恭院御実紀」など)に記述されている訳ですが、目撃者が現存しているはずもなく、真偽の程は確認するすべがありません。しかし、最終的にすべての品目を納入し終えるのに2ヵ月を要した、とのことですから、大袈裟な誇張という訳でもなさそうです。

また、上掲のリンク先である「天璋院」のウィキペディアにも同様の記載はありますが、輿入れの御一行はどのような道程を経て江戸城内に入ったのか、という内容については記述がありません。そこで、安直にウィキペディアを書き写している訳ではなく、多少は事前に調査していることを証明するために、その道程をMAPにまとめてみよう、ということが前回と今回のテーマなのです。そのため、暗渠や川にまつわる話題とは異なることを事前に申し上げておきます。
それと、急な企画故現調など行っておりませんので、ルートの通過ポイントなどの写真で自前で用意できないものはgoogle先生にお借りすることに致します。また、江戸期の道程確認ですので、goo古地図を切り貼り致します。問題等ございましたらご連絡賜りますよう、お願い申し上げます。

 ※篤姫輿入れルート地図・・・クリックしてご覧下さい。

篤姫の輿入れに関する記述は、前述の「温恭院御実紀」にあります。これは「続徳川実紀」内の第13代将軍徳川家定に関する記述をまとめたものです。
そこから輿入れ御一行様の出発~通過~到着地点として掲載されているものを抜き書きすると、

渋谷の松平(島津)薩摩守下屋敷裏門→備中守下屋敷前→北条美濃守下屋敷前通りを左へ→麻布三軒家→桜田町御書院番組屋敷→芋洗坂大久保加賀守下屋敷前通り→六本木五島左衛門尉屋敷脇→飯倉片町上杉駿河守屋敷前→四辻より左へ→飯倉松平右近将監屋敷前→西久保通りを右へ→相良元三郎屋敷前→木下主計頭屋敷脇前→稲葉伊予守屋敷前を右へ→久保町→幸橋御門→松平時之助屋敷前脇→松平薩摩守屋敷脇→松平肥前守屋敷前を通り右へ→日比谷御門→八代洲河岸通り→龍の口→遠藤但馬守屋敷前脇→酒井雅楽頭屋敷前脇→御堀端通り平川口

といったものになります。全行程で2里ちょっと、約9km弱といったところでしょうか。輿1つで3mと仮定すると、この行程に3000もの輿が一列に並ぶ計算になります。エピソードが真実なら、島津斉彬の傾注が只ならぬものであることが窺い知れる、空恐ろしい規模といえます。
前回は、渋谷の島津藩下屋敷から江戸城の外堀まで話しを進めることができました。今回は、幸橋御門より江戸城に入るまでの道程を確認しましょう。

■幸橋御門

輿入れの一行は、「幸橋御門」より外堀を越えています。
「幸橋」の名の起こりは、橋の南側にあった“鍋町”のちに“幸町”と呼ばれた町屋からきたといわれています。

幸橋門は肥後国熊本藩主の細川忠利が築いた。この門は増上寺参詣の道筋にあたるため御成橋門とも呼んだ。虎ノ門から新橋方向へ向かう外堀通りと並走するTOTOビルの裏手と郵政公社の手前にあるもう一本の通りが外濠の痕跡で、幸橋門まで長い直線の濠の防御線にしないよう出張ったり引込めたりする折邪(おりひずみ)で石垣が築かれている。外濠はこの幸橋門で2筋に分かれる。一筋は汐留川でそのまま東に向かい浜御殿手前で江戸湊に注ぐ。もう一筋は北の数寄屋橋門から呉服橋門に向い江戸城が渦巻きの城であることを示す濠筋となる。この幸橋門の内側にある地域を内幸町と名付けている。  (「大江戸歴史散歩を楽しむ会 – 幸橋御門」より)

16・17・18・19

16幸橋御門

■松平時之助屋敷前脇

幸橋御門を潜ると左手にあるのが、松平甲斐守の上屋敷です。現在の内幸町ホールから西側あたりだと思われます。
この松平甲斐守とは、第5代将軍徳川綱吉の側用人から大老格まで出世した柳沢吉保が後年拝領し、甲斐国国中3郡(巨摩郡・山梨郡・八代郡)を治めていたため甲斐守を賜っていたものです。島津氏同様、血族以外で松平の姓を名乗ることができた柳沢氏の屋敷です。

17松平時之助屋敷

■松平薩摩守屋敷脇

こちらの“松平”も島津氏で、血族以外の松平氏です。元は島津藩の上屋敷だったそうですが、手狭になったため三田に移転してこちら(内幸町)が中屋敷となった模様です。手狭といっても現在のみずほ銀行やNTT日比谷ビル、NBF日比谷ビル(旧大和生命ビル)などのある区画ですから結構なスペースです。ちなみにNBF日比谷ビルのところには「鹿鳴館」がありました。

18松平薩摩守中屋敷

■松平肥前守屋敷前を通り右へ

現在の日比谷公園周辺はそうそうたる各大名の上屋敷などが建ち並んでいたところです。篤姫御一行が輿入れした幕末には「松平肥前守上屋敷」となっていますが、元は“松平陸奥守”の屋敷地でした。“松平陸奥守”も血族以外で松平を名乗ることができた伊達氏のことです。

19松平肥前守上屋敷

■日比谷御門

日比谷公園内にある「心字池」はかつての濠でしたが、日比谷公園造成時その面影を残すために池としたものです。この「心字池」に沿って100mくらいの長さの石垣があります。この石垣は、江戸城外郭城門の一つ、日比谷御門の一部です。
城の外側から順に、高麗門(こまもん)・枡形(ますがた)・渡櫓(わたりやぐら)・番所が石垣で囲まれていましたが、石垣の一部だけがここに残っています。
日比谷公園北東に位置した松平陸奥守こと伊達正宗によって枡形門は造られており、上屋敷からほど近いための普請請け負いなのかもしれません。

20日比谷御門古地図

20日比谷御門

■八代州河岸通り

八代州(やよす)は、ここに住んでいたオランダ人ヤン・ヨーステンの和名「耶楊子(やようす)」に由来します。彼は、江戸時代に日本に漂着し、後に、徳川家康の国際情勢顧問や通訳として活躍した関係で、徳川家康からこの地に邸を与えられています。
現在の八重洲は外堀通り側ですが、もともとは丸の内の一部で、外堀と内堀の間の地でした。

21・22・23・24・25

21八代州河岸

■龍の口

『和田倉濠』は、江戸城における海路からの荷揚場でした。“和田”は海を表す古語“ワタ”で、倉(蔵)は文字通りでしょう。海(日比谷入江)に面した物資の集積場の意と思われます。江戸城防衛、居住地造成の観点から、徳川家康は日比谷入江を埋め立てます。結果として、江戸湊からの物資輸送のために『道灌堀』を設けるのですが、その『道灌堀』と『和田蔵濠』の接続地点を“龍の口”といいます。「御府内備考」によれば、「形ち龍の水を吐出すが如くなれば、“龍の口”と唱へしより、近き辺をもその名を襲ふと云」とあります。

22龍の口

■遠藤但馬守屋敷前脇

現在は、日比谷通りが神田橋方面に伸びていますが、かつての八代州河岸に沿った通りの延長は現在の大手町交差点手前で行き止まりとなってしまいます。古地図では“歩兵屯所”となっていますが、この位置に遠藤但馬守の屋敷があったと思われます。現在では日比谷通りの両側に展開する三井住友銀行の東館・西館やパレスホテルのあたりだと思われます。

23遠藤但馬守屋敷

■酒井雅楽頭屋敷前脇

酒井雅楽頭は徳川家康青年期の重臣のひとりで、その孫の酒井忠清は大老となりました。幕政において大変な影響力を持っており、代々雅楽頭(うたのかみ)を名乗ったそうです。
江戸城の正門になる大手門の横にある絶好?の立地にあり、その権勢が推測できる屋敷地といえます。現在の三井物産ビルは当敷地内にあり、その他に将門塚が中庭に位置するのだそうです。

24酒井雅楽頭上屋敷

■御堀端通り平川口

平川門は、江戸城三の丸への正門で、大奥への出入りを受け持つ門で、本来は、徳川御三卿の田安・一橋・清水の各徳川家の登城口でした。奥女中の通用門として「お局御門」、死者や罪人をここから運び出したことから「不浄門」の異名を持つことでも知られています。

25平川門

“大奥”と命名されるほどであるので、当然城内でも最深部に嫁入り先は所在する訳でして、厳密にいえば平川門から先も輿入れの行列は続いたものと思いますが、場内の詳細は割愛させていただきます。

こんなことで、当ブログの手抜き度合いをなかったことにしよう、というのもムシのいい話ですが、一応それなりに知識の掘り下げ工程を行っていることがご理解いただけたら幸いでございます。
次回以降は本来の姿に戻り、『渋谷川』の支流を採り上げて参ります。

 ※渋谷川中流域支流群地図・・・クリックしてご覧下さい。

注)拙ブログにて紹介しております流路地図は、拙ブログに記載している内容をご理解いただくための補助資料として用意しております。第三者に提供したり、共有したりすることを想定して制作しておりません。私的な探究心の備忘録としてご覧願えれば幸いです。

本文中にてご紹介する人物(キャラ等も含む)は、原則として、敬称を略すことで統一しております。しかし、ちゃらんぽらんな性格故、この原則は必然的になし崩しとなる可能性が高いものとご認識下さい。
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Posted on 2016/09/28 Wed. 00:00 [edit]

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いもり川番外編     -篤姫の輿入れに関する調査報告その1- 

調査:物事の実態・動向などを明確にするために調べること。「都市の言語生活を―する」「国勢―」「市場―」「信用―」・・・goo辞書より抜粋




『渋谷川』中流域の支流群を紹介しています。前回は、「渋谷城」の外堀機能もあったという『いもり川』について、その流れを辿ってみましたが、知人連中から「いくら何でも輿入れの行列が長すぎやしないか?」といった疑問や「よく調べもしないでウィキペディア(・・・クリック!)を転記しているだけなのでは・・・」といったスルドい意見をいただいてしまいました。

“輿入れの行列の先頭が江戸城内に到着しても最後尾は藩邸に留まっていた”というエピソードは、当時の記録(「温恭院御実紀」など)に記述されている訳ですが、目撃者が現存しているはずもなく、真偽の程は確認するすべがありません。しかし、最終的にすべての品目を納入し終えるのに2ヵ月を要した、とのことですから、大袈裟な誇張という訳でもなさそうです。

また、上掲のリンク先である「天璋院」のウィキペディアにも当該エピソードに関する同様の記載はありますが、輿入れの御一行はどのような道程を経て江戸城内に入ったのか、という内容については記述がありません。そこで、安直にウィキペディアを書き写している訳ではなく、多少は事前に調査していることを証明するために、その道程をMAPにまとめてみよう、ということが今回と次回のテーマなのです。長くなりますので分割させていただきます。そのため、暗渠や川にまつわる話題とはまったく異なることを事前に申し上げておきます。
それと、急な企画故現調など行っておりませんので、ルートの通過ポイントなどの写真で自前で用意できないものはgoogle先生にお借りすることに致します。また、江戸期の道程確認ですので、goo古地図を切り貼り致します。問題等ございましたらご連絡賜りますよう、お願い申し上げます。

 ※篤姫輿入れルート地図・・・クリックしてご覧下さい。

篤姫の輿入れに関する記述は、前述の「温恭院御実紀」にあります。これは「続徳川実紀」内の第13代将軍徳川家定に関する記述をまとめたものです。
そこから輿入れ御一行様の出発~通過~到着地点として掲載されているものを抜き書きすると、

渋谷の松平(島津)薩摩守下屋敷裏門→備中守下屋敷前→北条美濃守下屋敷前通りを左へ→麻布三軒家→桜田町御書院番組屋敷→芋洗坂大久保加賀守下屋敷前通り→六本木五島左衛門尉屋敷脇→飯倉片町上杉駿河守屋敷前→四辻より左へ→飯倉松平右近将監屋敷前→西久保通りを右へ→相良元三郎屋敷前→木下主計頭屋敷脇前→稲葉伊予守屋敷前を右へ→久保町→幸橋御門→松平時之助屋敷前脇→松平薩摩守屋敷脇→松平肥前守屋敷前を通り右へ→日比谷御門→八代洲河岸通り→龍の口→遠藤但馬守屋敷前脇→酒井雅楽頭屋敷前脇→御堀端通り平川口

といったものになります。全行程で2里ちょっと、約9km弱といったところでしょうか。輿1つで3mと仮定すると、この行程に3000もの輿が一列に並ぶ計算になります。エピソードが真実なら、島津斉彬の傾注が只ならぬものであることが窺い知れる、空恐ろしい規模といえます。
では、順を追って道程を見ていきましょう。

■渋谷の松平(島津)薩摩守下屋敷裏門

そもそも何故に渋谷の薩摩藩下屋敷からスタートなのかというと、当時は幕末の動乱期で浦賀沖にペリー総督がやってきて、通商を迫られたり、“安政の大地震”といわれる日本国内での大型地震の群発があったりと、世情が大変不安定でした。
既に婚儀が決まっていた篤姫も、海路で荷物を運びこむのに便利(『入間川』河口の重箱堀)だった三田の薩摩藩邸で待機(江戸に来て2年以上)を余儀なくされていました。そこに安政江戸地震が襲いかかり、婚礼の御道具類が焼失してしまう被害に遭います。嫁入りの御道具は西郷隆盛によって再度揃えられるのですが、三田の薩摩藩上屋敷の被害は大きく、仕方なく被害の小さかった渋谷の藩邸に移動したのです。
“島津”ではなく“松平薩摩守”となっているのは、徳川家が有力大名を取り込むために松平姓を与えるようになったためです。血縁関係が無く松平姓を与えられた家は、島津家以外では、加賀前田家、仙台伊達家、毛利家、黒田家、浅野家、鍋島家、池田家、蜂須賀家、山内家などがあります。

1・2

IMG_20160911_062502.jpg

上掲の写真は常磐松の碑です。常盤御前が『いもり川』で洗ったいもじ(腰巻)を干したとされる松の石碑です。この碑は、島津藩邸に仕える方が建てられたそうです。裏門の正確な位置は不明ですが、この碑のあるあたりから東四丁目交差点付近にあったのではないかと推測します。
ちなみに、常盤御前の“常盤”から常磐松は命名されているのですが、「盤」の文字の“皿”は割れてしまうので“石”の「磐」に変更されたそうで、交番などは“石”の「常磐」、周辺のマンションは混在という状況です。

■備中守下屋敷前

現在の「広尾ガーデンヒルズ」あるいは「広尾ガーデンフォレスト」のある地は、堀田備中守の下屋敷があったところです。現在も「堀田坂」としてその名が残っています。

堀田坂

■北條美濃守下屋敷前通りを左へ

堀田坂を下り、次に採り上げる予定の『笄川』を渡ると上り坂になり、現在の外苑西通りを越えた先に「北条坂」があります。
北條美濃守(古地図では遠江守)下屋敷は現在の「北条坂」の南側に面していました。

3・4北条坂・三軒家町

3北条坂

■麻布三軒家

北条坂を登ると愛育病院前の交差点で「テレ朝通り」にぶつかります。「テレ朝通り」を六本木ヒルズ方向に進むと間もなく右手側に中国大使館(中華人民共和国駐日本国大使館)があります。このあたりが「三軒家町」です。古地図では“三ケンヤ丁”と表示されています。

4三軒家町

■桜田町御書院番組屋敷

六本木ヒルズの北側の敷地、六本木通りにほど近いあたりに御書院番組屋敷があったものと推測されます。御書院番というのは、将軍の親衛隊のような組織です。
テレ朝通りには桜田神社もあり、この周辺を桜田町といったのだと思われます。
この付近は、六本木ヒルズ建築時に道路を大幅に変えてしまっているのでちょっと困ります。

5・6・7御書院番・大久保・五島

5桜田町御書院番組屋敷

■芋洗坂大久保加賀守下屋敷前通り

饂飩坂を眺めながら芋洗坂を横切り、現在のロアビル方向に進んで外苑東通りに出たあたりが大久保加賀守の下屋敷です。ロアビルや天下一品ラーメン、ハードロックカフェなどはこの敷地内でした。

6大久保加賀守下屋敷

■六本木五島左衛門尉屋敷脇

港区役所麻布区民センターから北側、現在の外苑東通りまでの位置が五嶋近江守の上屋敷だったところです。大久保加賀守の屋敷とは、鳥居坂に至る道を挟んで反対側になります。

7五島左衛門尉上屋敷

■飯倉片町上杉駿河守屋敷前

飯倉交差点の北東の角地は上杉駿河守の屋敷地でした。現在は港区立麻布小学校や外務省外交史料館になっています。

8上杉駿河守古地図

8上杉駿河守屋敷

■四辻より左へ

「四辻」は、現在の飯倉交差点付近です。飯倉の十字路付近をひとつの角として、その周辺に四角形(五角形?)の道路が形成されていました。

9四辻古地図

9四辻

一行は榎坂を抜けて左折したのでしょうか?それとも榎坂を最後まで下りきらずに左折し、すぐに雁木坂へと曲がっていったのでしょうか?気になりますが、記述に詳細はないのです。以降にヒントが用意されていますので、そちらから類推していきましょう。

■飯倉松平右近将屋敷前

上記で、“四辻の通過の仕方の記載がない”としましたが、手掛かりその1としては、この飯倉松平右近将の屋敷です。こちらは現在のノアビルのあるあたりです。先に掲載した江戸期の古地図ではグレーの区域で「松平右近」と記載された町屋として表示されています。

10松平右近将屋敷前

■西久保通りを右へ

決定的なヒントがこの“西久保通りを右へ”という記述です。榎坂を途中で曲がった場合、雁木坂を通って現在の桜田通り方向に出るには左折(あるいは直進)となります。“右へ”という記載ですので、榎坂を下りた後、霊友会ビルの方に左折してから現在の桜田通り方向に出るために右折した、とみるべきでしょう。現在の桜田通りは、ショートカットするように、榎坂下の飯倉交差点から緩やかに右に曲がって西久保八幡神社(八幡社普門院)前を通る道になっているので、ちょっと紛らわしいです。

11西久保通り(を右へ)

11西久保通り

桜田通りを皇居の方に進むと、神谷町交差点の一区画手前で右斜め先に折れて、天徳寺の方に進んでいきます。古地図では反対側の左に曲がると“城山”となっていますので、現在のテレビ東京の裏を抜けて城山トラストタワーや仙石山森タワーに至る道だとわかります。天徳寺は現在の規模よりもはるかに大きかったようです。

11西久保通り古地図

■相良元三郎屋敷前

江戸城に近づいてきたため、お城に向かう道路はどれも真っ直ぐには進めない仕様になっています。篤姫の輿入れ一行も、現在の外堀通りの手前で相良志摩守の上屋敷に至り、右に曲がっています。

12・13・14・15・16

12相良志摩守神屋敷

■木下主計頭屋敷脇前

篤姫の輿入れ一行は、相良志摩守上屋敷前で右折すると、現在の愛宕下通りを左折しました。愛宕下通りには『桜川』が流れており、一行は木下主計頭の屋敷で左折して『桜川』に沿って外堀に向かって進んでいます。

13木下主計頭上屋敷

■稲葉伊予守屋敷前を右へ

『桜川』に沿って木下主計頭屋敷を左折した一行は、愛宕下通りから外堀通りに向かい、西新橋一丁目交差点を新橋駅方向に右折します。右折する角には、稲葉伊予守の上屋敷がありました。

14稲葉伊予守神屋敷

■久保町

現在の愛宕下通りから日比谷通りに至る外堀通り沿いは、かつて久保町と呼ばれておりました。一行は新橋駅日比谷口前交差点(かつての久保町原)を左折し、外堀を幸橋御門から越えていきます。

15久保町

ようやく江戸城の外堀まで話しを進めることができました。次回は、幸橋御門より江戸城に入るまでの道程を確認していきます。
もう一回ほど、このお遊びにお付き合い下さい。

 ※渋谷川中流域支流群地図・・・クリックしてご覧下さい。

注)拙ブログにて紹介しております流路地図は、拙ブログに記載している内容をご理解いただくための補助資料として用意しております。第三者に提供したり、共有したりすることを想定して制作しておりません。私的な探究心の備忘録としてご覧願えれば幸いです。

本文中にてご紹介する人物(キャラ等も含む)は、原則として、敬称を略すことで統一しております。しかし、ちゃらんぽらんな性格故、この原則は必然的になし崩しとなる可能性が高いものとご認識下さい。

Posted on 2016/09/21 Wed. 00:00 [edit]

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いもり川    -篤姫の壮大な輿入れ- 

輿入れ:《昔、嫁入りのとき、嫁の乗った輿を婿の家に担ぎ入れたことから》とつぐこと。嫁入り。「秋の吉日に―する」・・・goo辞書より抜粋




『渋谷川』中流域の支流群を紹介しています。今回は、「渋谷城」の外堀機能もあったという『いもり川』について、その流れを辿ってみましょう。

P904065階段3

『いもり川』というちょっとユニークな名前の由来には諸説あります。
最も有力とされているものが、「川にイモリが棲息していたから」というド直球なものです。他には、源義朝の側室であった「常盤御前」が牛若丸など3人の子供を連れてこの近辺を通りかかった際に、子供や自分の「いもじ」(腰巻)を川で洗ったので“いもじ川”と呼ぶようになり、のちに『いもり川』に変化した、この地の古名である“谷盛荘(やもりのしょう)”の“やもり”が訛った、などの俗説が伝えられています。

『いもり川』は、渋谷区渋谷4丁目にある青山学院東門あたりから流れが始まり、沿岸の池からの湧水を得ながら、常磐松から羽沢と呼ばれた谷筋を北から南に流れ、渋谷川に注いでいました。

始まりは、現在の青山学院大学の敷地内です。ここは、江戸時代には伊予国西条藩松平家の上屋敷でした。

P904041青山学院大学正門

西条藩松平家は、紀州徳川家からでた親藩連枝で、徳川吉宗が将軍になったあとの紀州藩に藩主を送り込むなど、宗藩との関係が非常に深い家柄だったそうです。

青山学院大学敷地横の通称アイビー通りに面するアイビーホール青学会館の裏というか敷地内のウェスレーホールのあたりというかに水源であった池があったのですが、明治期には埋め立てられてしまったようです。

P904042アイビー通り

P904044アイビーホール

東門あたりから青山学院の敷地を抜け出た流れは、短大や中等部の敷地の縁をなぞるように進み、六本木通り(都道412号線)を渡ります。五差路の変則交差点である渋谷四丁目交差点には日本コカ・コーラ㈱の新社屋や常磐松交番があります。

P904049コカコーラ

P904050常磐松交番

常磐松交番の横の道(写真では救急車が停っている通り)を流れは進みます。常磐松交番を過ぎるとかつての島津藩渋谷下屋敷というか常陸宮邸の緑があります。

P904051常陸宮邸前

この島津藩渋谷下屋敷から篤姫(天璋院)は第13代将軍徳川家定のもとに嫁いだのでした。
常陸宮邸と『いもり川』の間のスペースには細長い水田が続いており、1898年この一角に東京農学校(後の東京農業大学)の演習田が広がっていました。キャンパスは空襲での焼失をきっかけに、その後1946年に世田谷に移転しています。
常陸宮邸の御料地に沿って『いもり川』は進み、間もなく東四丁目交差点という変則六差路に至ります。交差点の北側には戦前まで『常磐松の池』があったそうです。現在はマンションとなっており、その当時の様子は窺い知ることもできません。

常磐松の池跡

交差点の南側には暗渠に続く階段がしつらえてあり、

P904055階段1

その奥には苔むした暗渠道があります。

P904056いもり川

P904057いもり川

暗渠道らしい区間の終りには再び階段があります。

P904058階段2

上掲の写真右側の建物が建て替わった際に、コンクリート製だった階段が現在のスティール製に替わっています。
階段を上がった道路を越えて流れは進んでいきます。

P904060いもり川

P904061いもり川

右にカーブして元の道路に戻ると、冒頭に掲示した『いもり川』の表示がある階段のある交差点になります。

P904066階段3

この交差点の北側には東京女学館小学校があり、ここにかつて『羽澤の池』がありました。

P904064東京女学館小学校

「羽沢」あるいは「羽澤」ともいうこの近辺にも源氏関連伝説があります。鎌倉時代、源頼朝の飼い鶴がこの地に飛んできて卵を産み、孵ったヒナが初めて羽ばたいた地なので「羽沢」とか「鶴沢」と呼ばれるようになったのだそうです。
『いもり川』階段の先も素敵な暗渠道です。

P904067階段3

P904068いもり川

P904069いもり川

いずれの階段も土盛りが行われているので、川の勾配を継続的に追うことが難しくなってしまっていますが、この部分を見るにつけ、結構な勾配が大谷石の積み石状況から判別できます。

また、左岸の法面にも改良が加えられているようですが、大谷石の法面やコンクリートの打ってある崖などが今なお残っていることにホッとします。

P904076いもり川

P904079いもり川

暗渠道の素敵なカーブに見とれていると

P904072いもり川

P904078いもり川

急に道幅が拡がり、渋谷区立臨川(りんせん)小学校の脇に出ます。

P904081いもり川

「ドンドン橋」が架かっていた明治通り(都道416号線)を越え、広尾一丁目児童遊園地の段差を通過して『渋谷川』に合流します。この段差から生じる滝の音が“ドンドン”と響いていたのだそうです。

P904083広尾一丁目児童遊園地

P904084広尾一丁目児童遊園地

緑のフェンスの向こう側が『渋谷川』です。
この公園のそばには、かつて鍛造用の水車が設置されていました。最初の設置者である友野義国は、この水車を利用して刃物の鍛造に取り組み、日本初の理髪鋏の発明を行いましたが、継続的な鍛造には水車の動力が不足していたため、コンデンスミルク製造用の永井勘七水車が新しく架けられました。

『いもり川』の通る東四丁目交差点付近には、かつてオウム真理教青山総本部があったところで、現在も更地にはなっていますが、事故物件であるが故に活用される様子はありません。
この東四丁目交差点付近にあった島津藩渋谷下屋敷より、篤姫が輿入れしたことは先にふれましたが、島津藩の用意した花嫁道具類の多さは想像を超えるものであったようで、輿入れの行列の先頭が江戸城内に到着しても最後尾は藩邸に留まっていたとのことです。島津斉彬や篤姫に恥をかかさないように奔走したであろう西郷隆盛の苦労が偲ばれる逸話です。

 ※渋谷川中流域支流群地図・・・クリックしてご覧下さい。

注)拙ブログにて紹介しております流路地図は、拙ブログに記載している内容をご理解いただくための補助資料として用意しております。第三者に提供したり、共有したりすることを想定して制作しておりません。私的な探究心の備忘録としてご覧願えれば幸いです。

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黒鍬谷    -風雲?渋谷城- 

風雲:1.風と雲。風や雲。また、自然。 2.事の起こりそうな情勢。「維新の―に際会して身を起し」〈蘆花・不如帰〉 3.竜が風と雲とを得て天に昇るように、英雄・豪傑が頭角を現す好機。・・・goo辞書より抜粋




「石の上にも~」とか申しますが、いつの間にか拙ブログも三年を経過しておりました。皆様の定期不定期にわたるご訪問に感謝しますとともに、今後も引き続き、このブログが皆さまのお眼汚しとなっていけますよう、継続する所存でございます。

前回まで『宇田川』とその支流群を紹介してまいりましたが、今回より『渋谷川』の対岸に移って、『渋谷川』中流域の支流群を紹介します。初回は、「渋谷城」の掘割として機能していた『黒鍬谷(くろくわたに)』について、その流れを辿ってみましょう。

まずは“渋谷”と“渋谷氏”についてふれなければなりません。
桓武(かんむ)天皇の孫にあたる高望王(たかもちおう)の後裔、平将恒(まさつね)は、本領である武蔵国秩父郡中村郷に因んで秩父氏もしくは中村氏を称しました。秩父氏の祖である平将恒は、武蔵国の勅旨牧である広大な秩父牧の別当職に就任します。これが秩父平氏の成長基盤となり、この一族から河越、畠山、小山田、稲毛、江戸、葛西、豊島、渋谷など、鎌倉時代に武蔵国で活躍する諸豪族を輩出していきます。
代は下り、秩父将恒の孫である秩父武綱(たけつな)が、源義家(よしいえ)の軍に従い、源氏の白旗を掲げ先陣を切って活躍したと伝えられ、その秩父武綱の弟とも、一説には次男ともいわれる河崎冠者基家(もといえ)が、出羽国の金沢柵(秋田県横手市)を攻略した功により、恩賞として武蔵国豊島郡谷盛庄(やもりのしょう)を与えられます。河崎基家は秩父二郎、小机六郎とも号し、武蔵国荏原郡、橘樹郡河崎庄(神奈川県川崎市)や小机郷(横浜市港北区)などを本領とする人物でした。
河崎基家は、このたびの武功を月旗の加護であると考え、1092年(寛治6年)豊島郡谷盛庄に月旗を奉じて八幡宮を勘請します。これが現在の金王八幡宮の前身である“渋谷八幡宮”の始まりです。金王八幡宮の社記によると、同じ1092年(寛治6年)河崎基家の嫡子である河崎平三重家(しげいえ)が、源義家の上洛に従って、内裏(だいり)の警備をおこなっていた時、二人の賊徒が切り込んできたところ、河崎重家がこれに立ち向かって、一人を討ち取り、一人を生け捕りにしたのだそうです。賊徒の名を問うたところ、「我こそは相模国の住人、渋谷権介盛国(もりくに)なり」と名乗ったといいます。この功によって、堀河天皇より“渋谷”の姓を給わり、渋谷土佐守従五位下に任じられます。普通、賊徒の姓を給わるというのはおかしな気もしますが、生け捕りにした賊徒は「権介」と名乗るので、相模国の在庁官人であり、一定の領土を支配する在地領主であろうと思われます。この賊徒も慣例により本領の地名を名字にしていたと考えられるため、賊徒の本領である相模国高座郡渋谷荘の地を没収して、河崎重家に与えるということを意味しているのであって、こうして、渋谷土佐守重家は相模国高座郡渋谷荘も領有することになります。
もともとの基盤である“谷盛七郷(現在の渋谷、代々木、赤坂、飯倉、麻布、一ツ木、今井等)”が本領なので、居城のある地も“渋谷”と呼ばれるようになり、東京の“渋谷”という地名が起きたとされています。

P904005金王八幡宮

このように、金王八幡宮は渋谷氏歴代の居城であった渋谷城跡の一部であり、渋谷氏の祖となる河崎基家(もといえ)が、城内の一角に“渋谷八幡宮”を創建したことに始まります。このあたり一帯の高台は、平安時代末期から渋谷氏一族の居館であり、東に鎌倉街道、西から南にかけては『渋谷川』が流れ、北東側には『黒鍬谷』と呼ばれていた谷地が展開しており、台地続きの南東側も1kmも行かずに渋谷川支流の『いもり川』が渓谷を刻んでいます。居館には水堀を巡らせていたそうで、周辺の数ヶ所には湧泉による湿地帯があったとされ、城郭としての好条件を備えていた模様です。

この“居館には水堀を巡らせていたそうで”の水堀(のうちの一つ)が今回のテーマとなる『黒鍬谷』でして、なかなか本題に入れず、大変恐縮でございますが、今しばらく寄り道にお付き合い願います。

『黒鍬谷』の“黒鍬”ですが、これは「黒鍬者」という集団から来ております。
戦国時代といえば、何といっても合戦をイメージされることと思います。 当然、そこには数千人規模の兵士が参加している合戦から、大きいものになると何万人規模での合戦も行うようになっています。一説によれば、武田信玄と上杉謙信との戦いで有名な川中島の戦いは、双方合わせて7000人以上の死者を出したこともある、といわれています。

では、それだけの死者が出てしまった戦場での死体処理はどうしていたのでしょうか。ご存知の通り、大将格で名のある武将たちは勲章と名誉のため勝った武将に首をとられます。また、合戦後の戦場は遺恨を残さないように残党狩りが行われ、負けた方に属する兵士の生き残りを探して、可能な限り息の根を止めて回ります。その後、安全な状況になると、戦場そばの農民や庶民の手により、お金になりそうな武器や鎧などの装備品は身ぐるみ剥がされ持っていかれてしまいます。
そして、最後に登場するのが死体処理を専門としていた「黒鍬者」と呼ばれる人たちでした。
彼らはもっとも身分が低い兵で、戦のないときは、道路の補修や砦、陣営の設置などの土木工事を担当としていました。農作業とは異なる土木用の鍬をつかって作業をしていたことから、この名前で呼ばれるようになります。

黒鍬者

中世以降、大名はそれぞれこの「黒鍬者」を雇い入れ、陣地や所有地の土木作業であったり、合戦後の戦死者の収容や埋葬を行っておりました。
この「黒鍬者」の屋敷があった谷であるため『黒鍬谷』と呼ばれている箇所が今回のテーマです。この谷には「渋谷城」の掘割としての機能を持つ流れがありました。その始まりは、青山学院大学の西門付近から始まります。

P904036青山学院大学西門

写真ではわかりにくいかもしれませんが、赤いコーンの奥に白っぽい砂利敷きのスペースがあります。ここが水路敷です。

P904035黒鍬谷

周囲はアスファルトで舗装されているのにこの箇所だけ砂利敷きなのですぐわかると思います。

P904034黒鍬谷

P904033黒鍬谷

P904032黒鍬谷

ビルをひとつ越すと道路を進んでいきますが、六本木通り寸前で再びビルの下に消えます。

P904029黒鍬谷

渋谷二丁目交差点のそばで六本木通りを渡り、ビル群を進みます。その流れを再び辿れるようになるのは大谷石の切通しが見える駐車場からです。

P904022黒鍬谷

流れは東福寺の脇で直角に曲がり、

P904023東福寺

金王八幡宮の石段前を進んでいきます。

P904021金王八幡宮前

金王八幡宮の石段前には石橋が架かっていたそうですが、暗渠化とともに撤去され、境内にて再利用されています。

P904011橋パーツ

P904008橋パーツ

P904009橋パーツ

境内といえば、この金王八幡宮が「渋谷城」の一部であった由縁と思われますが、石垣と思われる砦の石が展示?されています。
P904014砦の石

本題に戻って『黒鍬谷』の流れを追っていきましょう。
金王八幡宮前を抜けると流れは、豊栄稲荷神社の前で曲がり、

P904004豊栄稲荷神社

神社横の下り坂を『渋谷川』に向けて進んでいきます。

P904002黒鍬谷

この『黒鍬谷』の路地と並行する渋谷区渋谷3-14の路地(ウインズ渋谷の南側)は、かつての鎌倉街道の古道です。
鎌倉街道や『黒鍬谷』は、明治期や戦後など数回に渡って埋め立てられており、元の姿がわかりにくくなっています。

P904001黒鍬谷

明治通りの先でビルに行く手を阻まれてしまいますが、徒歩橋の上流側で『渋谷川』に合流します。

『渋谷川』や『黒鍬谷』のような水堀などに護られた「渋谷城」ですが、1524年(大永4年)北条氏綱の関東攻略の際、江戸城より出撃してきた扇谷上杉朝興(おおぎがやつうえすぎともおき)と氏綱が高縄原(現在の高輪)で衝突(高縄原の合戦)しました。両軍は激闘を展開し、戦線は膠着状態となったため、氏綱は別働隊を渋谷方面から廻して上杉軍を挟撃し退路を遮断しました。これが功をなして、上杉軍は守勢にまわり江戸城へ退却せざるを得なくなりました。
風雲急を告げるというか、勢いに乗った北条氏の別働隊によって「渋谷城」は焼き払われ、渋谷氏は滅んだとされています。
雲消霧散したとされる渋谷一族ですが、渋谷氏が北条氏綱に亡ぼされた後、渋谷一族の大和田太郎道玄(どうげん)が「渋谷城」跡近くに道玄庵という庵(いおり)を造って住んだため、渋谷駅前から円山町方面に至る坂道を「道玄坂」と呼ばれるようになりました。大和田太郎道玄は、「道玄坂」に出没しては山賊・夜盗のように暴れ回ったと伝えられています。

 ※渋谷川中流域支流群地図・・・クリックしてご覧下さい。

注)拙ブログにて紹介しております流路地図は、拙ブログに記載している内容をご理解いただくための補助資料として用意しております。第三者に提供したり、共有したりすることを想定して制作しておりません。私的な探究心の備忘録としてご覧願えれば幸いです。

本文中にてご紹介する人物(キャラ等も含む)は、原則として、敬称を略すことで統一しております。しかし、ちゃらんぽらんな性格故、この原則は必然的になし崩しとなる可能性が高いものとご認識下さい。

Posted on 2016/09/07 Wed. 00:00 [edit]

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宇田川    -聖地と疎まれた因果の地をすすぐ流れ- 

因果:1.原因と結果。また、その関係。 2.仏語。前に行った善悪の行為が、それに対応した結果となって現れるとする考え。特に、前世あるいは過去の悪業 (あくごう) の報いとして現在の不幸があるとする考え。「親の―が子に報い」 3.宿命的に不幸な状態におかれているさま。不運なさま。「頼まれるといやと言えない―な性分」・・・goo辞書より抜粋




代々木から初台一帯の呼称であった「宇陀野」を流れる川『宇田川』。『渋谷川』の最大支流である『宇田川』の流れを追っています。今回は、『宇田川松濤支流』に注ぎ込む『宇田川神泉谷支流』を辿っていきます。

『宇田川神泉谷支流』は、国道246号線と都道317号線とが交わる「神泉町交差点」あたりから「京王井の頭線神泉駅」のすぐ脇を抜け、丸山町を通って渋谷区松濤で『宇田川松濤支流』と合流する短い支流です。

もう少し正確に説明するならば、現在の渋谷区円山町23あたりの「滝坂道」から流れは始まっており、この流れが「神泉駅」脇を抜けて渋谷区松濤に向かっていきます。一方、「滝坂道」の南側にある上流部は後年人工的に設けられたもので、「神泉町交差点」あたりから「滝坂道」に通じています。おそらく、周辺の雨水などを排出するための流れだったのではないかと思われます。

P819010神泉谷支流

上掲の写真の道が「滝坂道」で『宇田川神泉谷支流』の源流部あたりです。この「滝坂道」は「甲州街道」に通じる古道で、「淡島通り」の旧道にあたります。
上掲の写真でいうと、「滝坂道」の左側に沿って流れる水路は左奥(北側)の住宅地を抜けて進み、「神泉駅」に向かいます。一方、並行する流れが「滝坂道」の右側にも存在し、その流れは、「神泉町交差点」からの流れの末端となっていました。
では、最上流より順を追ってみていきましょう。

P819003神泉町交差点

P819001神泉町交差点

「神泉町交差点」に隣接する緑地部分が流れの発端だと思われます。ここより出ずる流れは、ビルの隙間にある路地を抜けて「滝坂道」に直線的に向かっていきます。

P819004神泉谷支流

P819005神泉谷支流

路地の先には「日本山妙法寺」があり、その脇を抜けて「滝坂道」を目指して進みます。

P819007妙法寺

P819006神泉谷支流

上掲の植栽を抜けて「滝坂道」に出ます。

P819009神泉谷支流

「滝坂道」で並行する流れのうち「神泉駅」方面に抜ける流れは、「神泉館」の窪地横を通り、「神泉駅」方向に進んでいきました。「神泉館」とは、後述の「弘法湯」が経営する料亭で飲食を供する施設でした。

P819015神泉谷支流

上掲の写真奥の窪地に「神泉館」があり、その右手前側に「姫ヶ井」という井戸から湧く霊水を沸かした「弘法湯」がありました。
神泉町のウィキペディアによると、
谷にはかつて宇田川へ合流する湧水が存在し、空鉢仙人縁の霊水として「神仙水」と呼ばれた。いつしか弘法大師の開湯伝説とも結び付けられるようになり、江戸後期の村持の浴場発祥とも、明治に「今弘法」と称する浅草花川戸の僧が開いたともされる弘法湯が、代沢森巌寺で灸を据えた帰りに浸かると御利益があるとして有名となった。明治20年頃弘法湯に芸者屋宝屋が開業して以来、円山町と共に花街として栄えた。

また、中沢新一著「アースダイバー」によると、
この谷の全域がかつては火葬場で、人を葬ることを仕事とする人々が、多数住みついていた。神泉の谷は死の領域に接した、古代からの“聖地”だったので、このあたりには聖(ひじり)と呼ばれた、半僧半俗の宗教者が住みついていた。彼らは泉の水を沸かした「弘法湯」という癒しのお湯を、疲れた人々に提供していた。
とあります。

P819014弘法湯石塔

上掲の写真には「弘法湯」の存在を裏付けるかのように“弘法大師右神泉湯道”と刻まれています。「弘法湯」は上掲の写真奥にあるマンションの位置にあったそうです。

流れは、「神泉駅」の横にある踏切のすぐ脇を抜けていきます。

P819017神泉駅

P813023神泉谷支流

蓋の隙間から垣間見える流れは、はっきりと水の存在を確認することができます。
流れは渋谷区円山町に入り、ラブホテルのある細道を進みます。

P819018神泉谷支流

P813027神泉谷支流

東急百貨店本店前から山手通りの「松濤二丁目交差点」に至る道を越え、『宇田川松濤支流』に合流します。

P813028神泉谷支流

古田隆彦他著「超感度都市渋谷」には、
江戸時代の初期、神泉谷、現在の神泉町は、俗に隠亡谷(おんぼだに)と呼ばれていた。地獄橋という橋もあったというが、この辺りには川はないので、多分用水にかけた小橋だったのだろう。寛永年間、この辺りに稲荷を開こうとした村人たちが土を掘ってみると、夥しい数の人骨が出てきた。実をいうと、この土地はその昔、火葬場だったのだ。彼らは人骨の供養のため、坂上の三辻に地蔵を建立した。
と記されています。
“隠亡(おんぼう)”とは、寺院や神社において、周辺部の清掃や墓地の管理、とくに持ち込まれる死体の処理などに従事する人々のことです。この表社会に出にくい隠者を形だけ“聖(ひじり)”と呼び、彼岸に近い存在であるが故の“恐れ”が近寄りがたい雰囲気を演出し、「弘法湯」を活用して霊験あらたかな“聖地”に変貌させていったのでしょう。

「弘法湯」によって、閉じられていた“聖地”に人々が訪れるようになると、「神泉館」のような料亭や料理旅館が乱立し、「滝坂道」周辺は三業地へと変貌を遂げます。しかし、1956年(昭和31年)に売春防止法が施行されると花街は廃れていき、周辺は再び寂れかけていきます。
そんな時、遠く離れた“御母衣(みぼろ)ダム”の建設によって水没の憂き目に会ってしまった奥飛騨の人々が、莫大な補償金を利用して料亭や料理旅館をラブホテルへと変貌させていきます。“岐阜グループ”と呼ばれた岐阜県荘川村の人々は、東京電力を始めとする電力事業会社の手厚い補償「幸福の覚書:御母衣ダムの建設によって、立ち退きの余儀ない状況にあいなった時は、貴殿が現在以上に幸福と考えられる方策を我社は責任をもって樹立し、これを実行するものであることを約束する」によって得た金銭によってこの地に根差すこととなりました。

御母衣ダム

電力会社といえば、当地では冤罪事件として有名な「東電OL殺人事件」が起きています。
父親も東電幹部であり、慶応義塾大学卒から女性総合職の先端にいたとされる東京電力勤務のOLが、夜な夜な渋谷円山町の街頭に立って春をひさぎ、「神泉駅」踏切脇のボロアパートの空き部屋で首を絞められて殺された事件で、ネパール人の方を犯人に仕立て上げた冤罪事件でした。
その事件の異常性は、一見何不自由ないエリートOLが、わざわざボロアパートを利用して夜の蝶へと変貌を遂げる点にあり、自己に課したノルマとして1日4人を相手にする、という規則性を生んだりする背景に様々な憶測が飛び交ったものでした。

「客」として2年間つきあった50代の男性によれば、東電OLである渡邉泰子は東京電力に勤めていることを異常なほど誇りに思っており、電力こそ日本経済を支える最大不可欠の原動力だと熱っぽく語るのが常だったといいます。
“聖地”と呼んで疎まれた当地は、電力会社の補償によってラブホテル街へと変貌し、そこに電力会社のエリートOLが春をひさぐことから死に至る結末にある種の因果を感じたものです。当地をすすぐ流れであった『宇田川神泉谷支流』は、何を見てどう思っていたのでしょう。縁(えにし)と呼ぶには濃すぎる事実には、演出などというわざとらしさを吹き飛ばす事実の不思議さがあるように感じます。

 ※宇田川水系地図・・・クリックしてご覧下さい。

注)拙ブログにて紹介しております流路地図は、拙ブログに記載している内容をご理解いただくための補助資料として用意しております。第三者に提供したり、共有したりすることを想定して制作しておりません。私的な探究心の備忘録としてご覧願えれば幸いです。

本文中にてご紹介する人物(キャラ等も含む)は、原則として、敬称を略すことで統一しております。しかし、ちゃらんぽらんな性格故、この原則は必然的になし崩しとなる可能性が高いものとご認識下さい。

Posted on 2016/08/31 Wed. 00:00 [edit]

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