麻布水道    -インフラ整備における特筆すべき事柄- 

特筆:特にとりたてて書くこと。「特筆に値する」「特筆すべき事」・・・goo辞書より抜粋




『玉川上水余水吐』を紹介したいがために立ち上げた企画である『青山上水』。前回は、『余水吐』を紹介しました。今回は、『麻布水道』について記していきます。

のっけからで恐縮ですが、今まで『青山上水』についてふれていながら、『麻布水道』についての記述がまったくなされておりませんでした。大変申し訳ありません。この場を借りまして、あらためて『麻布水道』の説明と『青山上水』関連の歴史について記述していきます。

『青山上水』は、1660年(万治3年)に雑賀仁左衛門と木瓜屋庄兵衛が工事を請け負って建設し、その前後に造られた『亀有(本所)上水』、『三田上水』、『千川上水』とともに1722年(享保7年)に廃止されました。その後は、細々とした灌漑用水として活用されるのみであったといいますので、通水を完全に止められていた訳ではなかったようです。
まあ、この辺が幕府儒官室鳩巣(むろきゅうそう)のいう「江戸に大火が多いのは地中の水道管が水気を吸い土を乾かし、それにより風も乾き火気を呼びやすい」という屁理屈の屁理屈らしいところかなと...。

明治に入り、1879年(明治12年)、明治天皇は市民の衛生施設の改良・発達を望まれ、その資金として市民に七万円を下賜されました。この下賜は東京府内の15区に分配され、麻布区にも2千円あまりの下賜がなされました。この時、麻布区では初代区長の前田利充をはじめ、多羅尾慶、竹中萬寿藏、笠井庄兵衛、平原嘉兵衛らの提案により、区議の決議を経て、この下賜金を基にした上水道の開設を企画し、華族10名の願書を添えて府知事の許可を請願し、『麻布水道』計画を実行に移します。

この計画は麻布、赤坂、芝の3区に給水するもので、発案した麻布区が工事を施行したため『麻布水道』と呼ばれました。また、この施設時機には、前述の前田利充が麻布区だけでなく、赤坂区や芝区の区長も兼務していたこともあり、3区内の意思疎通は諮りやすいものであった、と想定されます。
『麻布水道』は、2万円の予算で(内訳は、1,500円の下賜金と区内有志よりの寄付金が16,700円、不足分は区の共有金から支出するというものであったそうです。またこの水道の使用料は井戸一つが年税4円とし、寄付をした有志については500円につき井戸一つを免税とし、それ以上は500円毎に1井戸ずつ免税されるものでした)他に類を見ない《区営の上水道》でした。

1880年(明治13年)に府知事の許可を得た『麻布水道』は、工事を府に委託して1881年(明治14年)に着工し、翌1882年(明治15年)に完成しました。
『玉川上水』を四谷大木戸で分水し、

PC09039大木戸跡碑

『青山上水』の道筋を引用した形で、裏大番町、表大番町を経て麻布区に入り、5線に分れたものでした。

そのうちのひとつは三河台町、市兵衛町から赤坂霊南坂に至り、

IMG_20170115_135751.jpg

もうひとつは仲町、飯倉6丁目、榎坂から芝区栄町に至りました。

手まり坂緑地

そして、この2線は『青山上水』と同じ経路でした。

新たなものは、龍土町、材木町、桜田町、三軒家町、本村町を経て仙台坂に至るものや、

PC11051仙台坂

旧ソビエト大使館脇から旧東京天文台に至るもの、

P122061東京天文台跡

そして最後のひとつは、榎坂下、飯倉3・4丁目から赤羽橋に至るものでした。

P129037赤羽橋交差点

その『麻布水道』の活用規模は、1884年(明治17年)には井戸数189、使用者は920戸を数えたといわれています。

しかし、1883年(明治16年)夏頃から水量が減るようになり、『市兵衛町線』と『飯倉町線』を隔日の配水として漏水個所を修理しましたが、水量は復活しなかったそうです。
このため『麻布水道』は維持困難に陥ってしまい、1884年(明治17年)12月に工費未納金の免除、その他の経費の返還を条件に、『麻布水道』を府下の一般水道に編入するための請願を行いました。これにより翌1885年(明治18年)1月に、『麻布水道』は東京府の『玉川上水線』に編入され、府の管轄となりました。
このように短命に終った『麻布水道』でしたが、明治の初期に自主的な努力によって建設されたもので、日本の水道史上に誇るべき事柄であると「港区史」では力説しております。

近代水道は横浜や函館、長崎などの港湾都市から発展していきましたが、その黎明期を迎える以前の模索的段階で、このようなインフラ整備がなされたことは特筆すべき事柄だと思います。

麻布区では、『麻布水道』が区の管轄を離れる際に、麻布区会議場敷地内に碑を建設しその功績を称えたといわれています。そこで、麻布区会議場であった現港区役所麻布区民センター(港区六本木5-16-45)を訪れてみたのですが、敷地周囲にはそれらしい碑を見つけることはできませんでした。ちょっと残念です。
おそらくですが、麻布区民センター以前の麻布公会堂時点でもすでに碑はないのではないのかな、と思うのですが、いかがなものなのでしょう。

最後に、その懐かしい?麻布公会堂の映像をご確認下さい。
「クレージー作戦先手必勝」という1963年の映画のラストシーンです。主演の植木等が警察署から出てくるのですが、その警察署に使われた建物が麻布公会堂です。
何かこの時代の異様に明るい雰囲気がたまらなく好きです。自分が育った時代だからかもしれません。



ホンダラホダラダ、ホイホイ!

 ※青山上水地図・・・クリックしてご覧下さい。参考程度にしかなりませんが....。

注)拙ブログにて紹介しております流路地図は、拙ブログに記載している内容をご理解いただくための補助資料として用意しております。第三者に提供したり、共有したりすることを想定して制作しておりません。私的な探究心の備忘録としてご覧願えれば幸いです。

本文中にてご紹介する人物(キャラ等も含む)は、原則として、敬称を略すことで統一しております。しかし、ちゃらんぽらんな性格故、この原則は必然的になし崩しとなる可能性が高いものとご認識下さい。
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Posted on 2017/02/15 Wed. 00:00 [edit]

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青山上水    -急流のそばにひそむ日常とは異なる世界の存在- 

日常:つねひごろ。ふだん。平生。「日常用いる道具」「日常会話」「日常性」・・・goo辞書より抜粋




『玉川上水余水吐』を紹介したいがために立ち上げた企画である『青山上水』。前回は、芝方面への流れを紹介しました。今回は、『青山上水余水吐』を辿っていきましょう。

飲料水としての流れである『上水』は、台地上の高い位置を流れていきます。『青山上水』でいえば、麻布台地上を滑るように流れています。自然にできた河川であれば、《水は低きに流るる》ので、終末はより大きな河川であったり海洋に辿りつきます。人工的な流れである『上水』は、住民の飲料水として消費された残りの分が自然河川や海洋に至ります。
人工的であるが故に、残量の流路としての役割だけでなく、大雨などのオーバーフロウ時の誘導路としても『余水吐』は自然河川などに余水を流すものとしてとても重要なものです。
『余水吐』は、余った水の処理に用いる水路ですから、「余りである」ことを確定させてから流すようにしないと、つまり必要な飲料水を流してしまうと『上水』を活用する末端の消費者に迷惑がかかってしまいます。そのため、『余水吐』は「余りである」ことを確実にするために、できるだけ『上水』の終末に設けられる傾向にあります。

『青山上水余水吐』は、外苑東通りの飯倉片町交差点と飯倉交差点の間で『青山上水』から分岐し、『古川』に向かって流下しています。
分岐地点は外務省外交史料館の道(外苑東通り)を挟んだ反対側です。

P129015余水吐

南側に坂を下った流れは、写真に写る物置と思われる位置ですぐに左に折れます。

P129016余水吐

折れた先(正確に言うと、左折後さらに右折するのですが)には、いかにもな流れのあった隙間空間が存在しています。

P129011余水吐

ここに水の流れがあることを証明するかのように、その存在を主張するマンホールが眩しいです。
下の写真正面に写るキンモクセイの箇所で左折します。

P129012余水吐

左折した箇所も引き続き未舗装の暗渠空間が続きます。

P129013余水吐

上掲の写真だと、流路が突然途切れたかのような写り方ですが、流れの先は下りの階段状の急な坂道になっています。

P129007余水吐

反対側(階段の下側)から見るとこんな眺めです。

P129002余水吐

階段の下にも立派なマンホールが存在します。

P129003余水吐

この箇所はきっと滝のような急流だったのでしょう。その当時の絵姿を見てみたいものです。
階段状の坂道を抜けた流れは、右に折れてマンションの敷地内を抜けた後、再び道路上に現れます。

P122014余水吐

クランク状の道を抜けていきます。

P122013余水吐

P129001余水吐

この後、民家の敷地内を通過し、狸穴公園のすぐ脇から法務局のある広い通りに出てきます。

P122009狸穴公園

P122006余水吐

流路を振り返った写真が上掲のものです。ぽつんとそびえる高層ビルがアークヒルズです。
流れは、食料品スーパーの店舗敷地を通過して『古川』に至ります。

P122002NISSIN.jpg

この『青山上水余水吐』の流路のすぐそばに、その手の嗜好の方には垂涎の設備を誇る「アルファイン」というホテルがあります。

P122007ALPHA IN

そのHP内の紹介文をそのまま掲載すると、

麻布狸穴町のSMホテル、アルファイン。ヨーロッパでは古くから貴族の遊びとして社交界にまでおよぶその伝統を、より楽しんでいただく為に、当館では斬新なアイデアを取り入れたSMルームをご用意しております。

とあります。ホテルのSpecialMajesticな設備にご興味がある方はコチラ(・・・クリック!)を参照下さい。
人類の想像力と実行力が生んだ“聖地”なのでしょうね。私のごとき凡夫では、堪能し得ない快楽なのかもしれません。
このような“異世界”へと誘う入口に魅入られつつ、

P122008ALPHA IN

日常へと歩みを戻すことが、自分にとってはささやかな幸福なのかもしれないと思った次第です。

 ※青山上水地図・・・クリックしてご覧下さい。参考程度にしかなりませんが....。

注)拙ブログにて紹介しております流路地図は、拙ブログに記載している内容をご理解いただくための補助資料として用意しております。第三者に提供したり、共有したりすることを想定して制作しておりません。私的な探究心の備忘録としてご覧願えれば幸いです。

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Posted on 2017/02/08 Wed. 00:00 [edit]

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青山上水    -職人気質(しょくにんかたぎ)の製品美- 

職人気質(しょくにんかたぎ):職人に特有の気質。自分の技能を信じて誇りとし、納得できるまで念入りに仕事をする実直な性質。・・・goo辞書より抜粋




『玉川上水余水吐』を紹介したいがために立ち上げた企画である『青山上水』。前回は、霊南坂への流れを紹介しました。今回は、六本木から芝・虎ノ門方面に至る流路(『飯倉町線』)を辿っていきましょう。

飯倉という地名の起源は非常に古いものなのだそうです。「港区史」によると、文書に登場する“飯倉”の起源は1184年(寿永3年)の「神鳳抄」までさかのぼることができるとか。実際、“飯倉”という地名が成立したのはもっと古く、大化の改新前後までさかのぼるとの説もあるようで、米を備蓄する倉があった場所なので“飯倉”と名付けられたようです。
古くは、“飯倉”の地は現在よりもはるかに広く、東は芝増上寺周辺まで、南は三田小山町周辺まで、西は六本木を越え麻布龍土町周辺なども含んでいた、といわれています。

P129019飯倉交差点

280429飯倉交差点

“飯倉交差点”は、都内でも有数のパワースポットなのだそうです。
南北に延びる国道一号線:桜田通りでは南北どちらから来ても登りの頂上であり、東西方向の外苑東通りだと下り坂の谷底になる不思議な地形に、東京タワーから下りてくるパワーと交通の大動脈となる国道一号線による“集力”とが合わさって、なんたらかんたらなのだとか。
六本木を抜けた『青山上水』は、その終着点である芝方面に向かう途中に、そんなオカルティックな場所を通過していきます。

では、飯倉片町交差点から流れを辿っていきましょう。

P115023飯倉片町交差点

飯倉片町交差点から東方向に進むと、左手に外務省外交資料館が現れます。外交史料館では、日本の外交記録を収集、整理、保管し、閲覧に供しています。また、幕末以来の貴重な条約書、史料などの展示も行っています。


P122023外務省飯倉公館

外務省外交史料館の敷地の始まりくらいの位置から、南に『青山上水余水吐』が『古川』に向かって流れ落ちていきます。こちらの流れは、次回にご紹介致します。

外交史料館の隣は、麻布郵便局です。建物は、1930年(昭和5年)に竣工した旧逓信省貯金局庁舎で、設計は大蔵省営繕管財局、施工は銭高組です。1943年(昭和18年)から逓信本省庁舎として使用され、1949年(昭和24年)に二省分離(郵電分離)により発足した旧郵政省が1969年(昭和44年)まで郵政本省庁舎として使用していました。
残念ながら、撮影時は工事中で、外側を養生シートが覆っておりました。

P122025麻布郵便局

この麻布郵便局のある場所は、「虎ノ門・麻布台地再開発」の計画地であり、総延べ床面積約82万平方メートルの大規模再開発を計画しています。約8・1ヘクタールの対象区域内に高さ約330メートルの超高層複合ビルを中心とした計7棟の建物を配置し、2018年度の着工、2022年度の竣工を目指す、としています。

虎ノ門・麻布大地再開発計画

計画通りに進めば、この郵便局の場所には、大阪あべのハルカス(300m)を超える日本一のビルができる模様です。
本題の『青山上水』に戻りましょう。『飯倉町線』は外苑東通りを東に進みます。

P122028飯倉町線

前回で凝りましたので、ロシア大使館は撮影しないよう、細心の注意を払っています。
「飯倉交差点」の手前、ロシア大使館の敷地の切れ目からは、「旧東京天文台」に向かって流れが分岐しています。こちらも後日改めてご紹介したいと思っております。

飯倉交差点手前にはミツオカギャラリー麻布があり、光岡自動車のレジェンダリーといえる「光岡・大蛇(おろち)」が展示されています。

P122029光岡自動車

アイラインといっていいのかわかりませんが、ヘッドライトのデザインが艶めかしくて実にイロっぽいです。

飯倉交差点を超えると東京タワー通りからはずれ、流れは左に折れて聖アンデレ教会の手前を旧芝給水所に向かって流れていきます。

P122058飯倉町線2

P122055飯倉町線

旧芝給水所に至る寸前の箇所は現在も暗渠状の跡を残しており、発見した時はちょっとした感動を覚えました。
旧芝給水所は、現在は芝給水所公園として少年サッカー場や公園などが整備されています。

芝給水所公園

グラウンドは人工芝なので冬場でも緑色です。
芝給水所公園の隣には芝給水所ポンプ棟があり、旧芝給水所の遺構などが保存されています。

P122053旧芝給水所遺構

P122054旧芝給水所遺構

東京の近代水道は、1898年(明治31年)、淀橋浄水場(当時の東京府豊多摩郡淀橋町、現在の新宿区西新宿・北新宿)と本郷給水所、今回紹介する芝給水所の稼働をもって、その歴史が始まっています。
この旧芝給水所が稼働できたのは、『青山上水』のルートによって(当時は『玉川上水』の水でしたが)飲用水を供給していたことによる部分も少ないないと思われます。

この後、『飯倉町線』の流れは、オランダ王国大使館の前を流れ、手まり坂緑地に至り、虎ノ門方面の飲水として活用されました。

手まり坂緑地

飯倉交差点のそばにあるミツオカギャラリー麻布にある「大蛇」関連の話題で最後を締めます。
光岡自動車は、カーメーカーとしての歴史は短いのですが、それが逆に競合他社との争いが希薄であるが故のしがらみの少なさや遺恨のなさにも通じてきます。
大蛇のパワー&ドライブトレーンには、レクサス・RX330用である3MZ-FE型3.3リッターV6エンジンと、アイシンAW製5速ATの組み合わせがそのまま採用され、横置きミッドシップレイアウトを取っています。ステアリングホイールはスズキ製。また、ブレーキはホンダ・レジェンド用を、内装の一部パーツにマツダ・ロードスターと同一製品を採用しており、競合メーカーの協力も得た、日本のものづくりの粋を集めたドリームカーです。

中でも、個人的にはですが、2009年に販売した特別仕様車の「大蛇 Rickenbacker」(オロチ リッケンバッカー)は素敵だと思っております。
リッケンバッカーは、1932年に世界初となるエレキギター「フライングパン」を製造・販売。1960年代には、ビートルズのジョン・レノン、ポール・マッカートニー、ジョージ・ハリスンらが愛用した事で世界に知れ渡るギターブランドとなり、手作りのギターにこだわって職人の手によって一本一本仕上げられています。
このコラボレーションは、こうしたリッケンバッカーの職人気質と、光岡の手作りによる造形美や車作りへの職人魂が共感し、実現したもので、インテリアでは「ギターボディー風木目調パネル」「リッケンバッカーテイルピース刺繍入り本革シート」、エクステリアでは「リッケンバッカーギターヘッド調エンブレム」が装備されています。

大蛇リッケンバッカー

リッケンバッカーの音色はあまり好みではなかったのですが、そのデザインは大好きでした。光岡自動車の「大蛇」も走りよりもそのデザインに好ましさを覚えるのですが、突き抜けるための努力というのも並みじゃなかったんだろうなと感心するばかりです。

 ※青山上水地図・・・クリックしてご覧下さい。参考程度にしかなりませんが....。

注)拙ブログにて紹介しております流路地図は、拙ブログに記載している内容をご理解いただくための補助資料として用意しております。第三者に提供したり、共有したりすることを想定して制作しておりません。私的な探究心の備忘録としてご覧願えれば幸いです。

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青山上水    -職務質問という(当然の)公務の遂行、ご苦労さまです- 

公務:おおやけのつとめ。国または公共団体の事務。公務員の職務。「公務の執行を妨害する」・・・goo辞書より抜粋




『玉川上水余水吐』を紹介したいがために立ち上げた企画である『青山上水』。前回は、六本木への流れを紹介しました。今回は、六本木から虎ノ門方面に至る流路を辿っていきましょう。

前回にもふれましたが、六本木五丁目交差点と飯倉片町交差点の間の丁字路より分岐した流れは虎ノ門方面に進み、「霊南坂」に至ります。途中通過する地域の旧町名から『市兵衛町線』と呼ばれている流れです。

麻布の最も北の台地上に位置する「旧麻布市兵衛町」は、一丁目と二丁目で構成されており、それぞれが異なる表情を持っていました。しかし、現在では町域を六本木通りと首都高3号線、一の橋から谷町に抜ける都道415号線と首都高速中央環状線が走り、高速の高架によって町が分断されてしまっています。また、泉ガーデンなどの都市再開発やその周辺の高層ビルの建設により、町の外観は大きく変化しています。
一丁目の高台は、明治に入って華族名士の邸宅が多くなり、東久邇宮邸、住友邸などほぼ全域が大邸宅になったそうです。二丁目のもともとが町屋であった地域には商店街ができ、住宅地もできたのだそうですが、一丁目の約半分、二丁目の大部分が東京大空襲による戦災を受けてしまい、戦後、かつての大邸宅であった土地は分割され、分譲住宅になったり、高級アパートとなりました。

そんな「旧麻布市兵衛町」を抜けて虎ノ門方面に向かい「霊南坂」に至る流れが、今回辿る『市兵衛町線』です。

外苑東通りから分岐した『市兵衛町線』は、一旦北に進み、

P115024市兵衛町線

寄席坂の最上部で東に曲がります。

P115025市兵衛町線

曲がった先には、六本木グランドタワーが先頃完成し、テレビ東京本社が2016年11月に神谷町から移転しています。かつてのプリンスホテルの面影は微塵もなくなっていました。

P115026六本木グランドタワー

首都高速飯倉料金所の先は公務員宿舎:六本木住宅ですが、

P115031六本木住宅

現在では競売にかかっておりました。

P115032六本木住宅

貴重な国費の無駄遣いと揶揄された公務員住宅ですが、その処分も苦戦している状況なのでしょうか。ここは結構いい立地だと思うのですが....。

この先は、大使館が目白押しの場所です。順にご紹介すると、まずはサウジアラビア王国大使館。

P115034サウジアラビア王国大使館

道なりに曲がった先の右手にはスウェーデン大使館があり、

P115039スウェーデン大使館

道の反対側にはスペイン大使館があります。

P115041スペイン大使館

P115040スペイン大使館

さらにその先にはアメリカ大使館があります。

IMG_20170115_140135.jpg

そして、アメリカ大使館に面した坂が「霊南坂」で、今回のテーマである『市兵衛町線』の最終地点です。

IMG_20170115_135751.jpg

上掲の写真内の右手側はホテルオークラ東京と大蔵集古館なのですが、現在改装工事の真っ最中です。

IMG_20170115_135650.jpg

オリンピックに向けた改修工事なのでしょうが、古き良き(この言葉が実にぴったり!)ホテルオークラ東京の本館がなくなってしまうことは、ちょっともったいない気もします。

《江戸時代のはじめ高輪の東禅寺が嶺南庵としてここにあり、開山嶺南和尚の名をとったが、いつしか嶺が霊となった。》という港区の説明文が、「霊南坂」の標識に記されています。
永井荷風の「断腸亭日乗」には《霊南坂を登るに坂上の空地より晩霞の間に富士の山景を望む。》という一文があります。この辺りからもかつては富士山が見えたのだそうです。

アメリカ大使館の「霊南坂」側はいかにも和風な塀で、山口筑前守の中屋敷だったことを彷彿とさせます。警備の警察官も多数いて、写真になるべく写らないように配慮したつもりですが、まったく写さないという訳にもいかず、しかもそんな当方の配慮など関係なく不審者と認識されかねないうろつきぶりと撮影回数ですから、職質も受けたりして....。
警察官の皆さんには余計な仕事をさせてしまいまして大変申し訳なく思います。次からはもう少し堂々と撮影するように致します(って、そういう問題でないことは重々承知しております)。

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青山上水    -全裸という状況だった点に関する一つの仮説- 

全裸:何も身につけていないこと。まるはだか。すっぱだか。・・・goo辞書より抜粋




『玉川上水余水吐』を紹介したいがために立ち上げた企画である『青山上水』。前回は、赤坂への流れを紹介しました。今回は、六本木方面に至る流路を辿っていきます。

青山一丁目駅あたりで『青山上水』は分岐し、その流れは赤坂方面と六本木方面とに分かれます。前回は赤坂方面の流れを辿りましたので、今回は六本木方面へと進んでいきましょう。

六本木方面へと進む『青山上水』の流れは、「都道319号環状三号線」を進んでいきます。当地での「都道319号環状三号線」は、「外苑東通り」と呼ばれています。

六本木交差点

この「外苑東通り」での『青山上水』は、東京の著名な観光スポットが周辺に多数存在しています。東京の代表的な繁華街である“六本木”を抜けていく訳ですので、当然といえば当然なのでしょうが、そのすべてを紹介することは不可能ですので、独断と偏見をもって取捨選択せざるを得ないことが残念です。それでは、青山側より順を追って見ていきましょう。

まずは、乃木坂にある乃木神社です。

P115007乃木神社

1912年(大正元年)9月13日、明治天皇が崩御せられて御大葬の日となった午後八時過ぎ、ちょうど御霊轜(棺を乗せた車)が宮城を出発される号砲が打たれた頃に、乃木希助大将と静子夫人は先帝に殉じて自刃を遂げられています。ご夫妻の功績と忠誠心に感激した人々が乃木邸を訪れ、その数は日増しに増えていったのだそうです。
翌1913年、乃木将軍ご夫妻の英霊を祀り国民崇敬の祠とすることを目的として、東京市長阪谷芳郎男爵を会長として中央乃木会を設立、乃木神社の設立を申請、許可を受け、1919年(大正8年)乃木神社を造営、1923年(大正12年)鎮座祭が斎行されています。

P115010乃木坂碑

この一連の流れの中で、当時「幽霊坂」と呼ばれていたものが「乃木坂」に改名され、現在では地下鉄の駅名や某女性芸能人グループにも使用されていますね。確か、改名は赤坂区議会の決議だったと記憶しております。
「幽霊坂」というくらいですから、幽霊が出そうなくらい木々が鬱蒼としている寂れた坂だったのでしょう。

P115005旧乃木邸

外苑東通り沿いには乃木大将の邸宅があり、現在は「乃木公園」として港区が管理しています。旧邸は傾斜地を巧みに利用した三階建てで、本人自らの設計だそうです。

続いては、六本木ミッドタウン他の旧長門府中藩毛利家下屋敷跡です。
つい先日『笄川』の際に紹介した米軍施設である「ハーディ・バラックス(・・・クリック!)」ですが、この軍関連施設一帯は、かつての長門府中藩毛利家邸(上屋敷は六本木ヒルズ、下屋敷が六本木ミッドタウン他)です。

P115017ミッドタウン

その後、大日本帝国陸軍の歩兵第一および第三連隊が使用しており、1946年よりアメリカ合衆国に接収され、米軍将校の宿舎として使用されました。サンフランシスコ講和条約発効後の1960年に日本に返還され、1962年より陸上自衛隊の檜町駐屯地となるとともに、防衛庁の本庁舎も設置され、2007年以降は六本木ミッドタウンが開業しています。

P115015ミッドタウン

細かいことを云うようで恐縮ですが、「六本木ミッドタウン」という呼称ですが、実際は赤坂9丁目に建っていたりします。

さて、先ほどの「幽霊坂」ではありませんが、この界隈は幽霊の目撃証言があるようです。
当時、「ハーディ・バラックス」に駐留していたアメリカ兵たちから「日本兵の幽霊を見た」という証言が続出し、新聞ざたにまでなりました。1946年2月の「内外タイムス」でも報じられたと、小池壮彦が「怖い話の本」巻末年表にて紹介しています。
報告を受けた日本の関係者側は、それは戦前の麻布第一連隊の幽霊ではないのか、と推測しています。この隊による新人への“しごき”は有名で、初年兵たちは冬の凍てつく池に入るという過酷な訓練を強いられていた。それによって病死したり、耐えきれず自殺した初年兵たちもいたそうだ。この池には、そんな彼らの亡霊があらわれるらしい……そんな怪談は、昭和初期の頃からもささやかれていたのだそうです。

さらに東南へ進むと、『吉野川(・・・クリック!)』等で紹介しました「芋洗坂」を有する六本木交差点に至ります。
“六本木”という地名は、青木氏、一柳氏、上杉氏、片桐氏、朽木氏、高木氏の“樹木”に関する文字を有する姓を持つ大名の屋敷があったことに由来する、という説もあるそうですが、こじつけ説に清き一票を投じたいと思っております。

「鳥居坂」から上がってきた「六本木5丁目交差点」と

P115020六本木五丁目交差点

「飯倉片町交差点」の間にある丁字路(“T”字路は間違いなんだそうですね。結構間違って使用していたかもしれません)で、

P115023飯倉片町交差点

『青山上水』は芝方面に進む流れと虎ノ門の「霊南坂」方面に進む流れ(『麻布水道市兵衛町線』)とに分岐しています。

P115021市兵衛町線分岐点

真冬の怪談は季節外れで風流ではありませんが、まだ続きがありますのでもうしばらくお付き合い下さい。
「ハーディ・バラックス」には男の幽霊だけでなく、女性の幽霊も現れるのだそうです。しかも全裸で!。ぜひ見てみたいものです。
《米兵たちの間で怪談が盛んに取りざたされていた頃、「アメリカン・クラブ」から進駐軍要員のメイドが派遣されてきた。20代半ばの日本人女性だったという。この女が、ある米軍中尉と深い仲になった》という噂が「ハーディ・バラックス」内で飛び交うようになります。そしてこの2人は、とんでもない事件を起こします。
《ある夜中に銃声が響いた。“また日本兵の幽霊か!”と騒ぎになり、パトロール隊が出動すると、池のほとりに米軍中尉と日本人メイドが倒れていた。裸で抱き合う2人の身体を弾丸が貫いていた》
実は、米軍中尉には本国に妻子がいたのです。そんな不倫のゴタゴタから日本人メイドが無理心中をはかったのだろう、と推察されました。
そして、それからというもの、「ハーディ・バラックス」には、日本兵の代わりに、日本人メイドの幽霊が出没するようになったのだそうです。死んだ時のように一糸まとわぬ裸の女がとぼとぼと歩く姿を、何人もの米兵が目撃している、と……。

六本木ミッドタウンの隣には、港区の管理する「檜町公園」があります。ここも長門府中藩の下屋敷だったところで、当時の庭園を利用した公園となっています。

檜町公園2

かつて、この「檜町公園」ではつい先日解散したJ事務所所属の“S●AP”の某メンバーが、やはり全裸で徘徊?していて騒ぎを起こしております。彼はこのメイドの幽霊に影響でも受けてしまったのでしょうか?例えばその姿を見て彼女に対するリスペクトの念が湧いたとか....。
そうだとすれば、彼が全裸であった理由に一応の説明がつきますが、いかがなものでしょう。もちろん、真相は闇の中で、語られることはないのでしょうが....。

 ※青山上水地図・・・クリックしてご覧下さい。参考程度にしかなりませんが....。

注)拙ブログにて紹介しております流路地図は、拙ブログに記載している内容をご理解いただくための補助資料として用意しております。第三者に提供したり、共有したりすることを想定して制作しておりません。私的な探究心の備忘録としてご覧願えれば幸いです。

本文中にてご紹介する人物(キャラ等も含む)は、原則として、敬称を略すことで統一しております。しかし、ちゃらんぽらんな性格故、この原則は必然的になし崩しとなる可能性が高いものとご認識下さい。

Posted on 2017/01/18 Wed. 00:00 [edit]

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